正教寺前住職中井裕子写真 2009年3月28日

中井裕子(旧姓 赤坂) 大正4年10月21日生まれ

平成26年(2014年)9月2日99歳(数え年100歳)にて

往生いたしました。生前のご厚情まことにありがとうございました。

下記の額はこの日記の最後の言葉を書家の上田大愚先生が書いてくださったものです。

平成25年2月11日

何もかも忘れてええのや念仏さまだけ出て下さったらそれでええのや

そら言 たわ言 まことあること無きに念仏のみぞまことにておわします

毎日たのしいよ 我家はお念仏が満ちあふれてござる
我家にはお念仏様が毎日ぼんおどりをしてます
そやそや、ほんまやで 和ちゃんもそやそや云ってます 合掌

和子註
本日母が「何月や」と聞きましたので、
「平成25年2月11日や」と答えたところ、2月11日は大切な日やなぁ、と申しました。
「どんな大切な日や」と聞き返しましたら、「もう忘れたなぁ」と申しました。
続けて「何もかももう忘れてええんや」。
しばらくして、「天長節や、」と嬉しそうに、「これ日記に書こ」、と申しましたので、
日記帳を渡しましたところ、
只今見ましたら、天長節のところは抜けて上のような内容になっていました。
11日の夜から、体調を崩しております。
久方ぶりの日記ですが、私としましては、
いつ、絶筆になるかも知れぬ、との思いもなきにしもあらずの心境でございます。

平成24年8月7日

わたしは97歳。
もうじき死ぬやろな。

あっちへ行ったら、明治さん待ってくれてよかの?
新しい嫁さんもろてたら、蹴飛ばしてやっつけてやろうか。

その時、和さん(娘)手伝ってよ。
何が何でも取り返さなよ。

あんなええ人探せやんさかい。
手放せんよな。

平成24年8月6日

いよいよ老境になった。
味わい深く思う昨今です。

上を見れば、空もきれい。山もきれい。
見渡せば、あの家、この家、みんな楽しそうな。
冬野よいところ。楽しい村よ。

みんな仲良く早朝からせっせ、せっせと働きながら
時にはごちそうして食べたり遊びに行ったり、
よく働きよく楽しく遊ぶ、みんな仲良く幸せものよね。

我が家の一日も、ごちそういただき、
夏の暑さもしらず、家内なかよく楽しい日々は、
ごくらくはごくらくは遠くかと思えど、この近くにあった。
ああこりゃこりゃこりゃ。

明治さんも優しい人格で、
叱られたり怒鳴られたりしたことなく、毎日楽しい日々でした。
来世もまたおじいさんと法を伝える役をしたいです。

吉村さん(故人、女学校時代の友人)にもまだ、お伝えしたいことがあります。
吉村さんは女学校でお席は私の後ろであって、キリストの教会へ行っていたが、
私の話を聞いてキリスト教でこれは少し変だと思うところがあった。

仏教は変な教えでなくてよかったと言っていたが、
もう少し長命だったら、仏教の有難い教えを聞くことが出来たのにと思う。
来世は私が仏教を説く順番でしたね。

キリスト教もよい師に巡り合ったらきっとよい教えでしょうね。
善知識は大切でしょうね。

平成24年8月5日

ああ、今日もうれしいなぁ。

何でうれしいのかと聞かれたら、
健康でそれにお念仏を唱える身にしていただいたことが嬉しい。

裕子さんの一日のはじまりはじまり。
5時朝食。
メニュー
好子さんのスープ、メロン、玄米粥、かぼちゃ煮物、干し大根、
ゴーヤ、針しょうが、キュウリの酢の物、トマトスープ。

健康な裕子さんは有難く感謝、感謝、感謝。
これから、大便に行くでしょう。
立派なのが出ます。

ここは町中でもなく、田舎でもなく、住むのに楽しいところやね。
家族優しい、自然も優しい、いいところ。

平成24年7月28日

唯今の幸せをよろこんでうたでもうたえる裕子さん。

あなたはほんとに幸せ者よね。

手も足も自由に動くから、幸せ。
耳は少し遠いけど、家族は大きな声で話してくれるから幸せ。

それより毎日毎日が嬉しい。
村田先生の勉強会にも、出席している。
楽しいなぁ。

村田先生の勉強会に出るのが、なにより楽しい。
遠方来て下さって、有難うございます。

毎日が念仏でおき、念仏でおやすみ。

おじいさんはやさしい人がらだったから、何時でも思い出す。

平成24年7月26日

和ちゃんが日記を書きなさいと言うけど、
毎日が楽しく有難いなあと思うだけ。

あ-した天気になーれ。

平成24年5月24日

今日もおべんとうを持って遊びに行きたいな。

しごとするのがすきでなく遊ぶことの方が好きなようです。

昔の人は和歌山へ用たしに行くのに歩いて和歌山まで行ったようでしょうね。
今の私はもうごめんごめん。

平成24年5月23日

私はもー九十六才になりました。

毎日幸せな日々をおくっています。
念仏申される事は最上の幸せです。

しかし、家内中でもめ事あれば念仏も申されぬ日があるのかな、とも思う。
月並みの日々が續くので有難い。

アー、トコトントコトンヤレ、トンやれな、アンポケ、
私も和さんもアンポケです。

平成23年7月17日

庭のみどりが朝日がてりはえて光っています。
木々の様子を見ていると、心がすがすがしくなります。

今日はどこへ行こうかな。

目の前に紀泉山脈が長々と続いて
むこうは大阪には米利さん(妹)と卓龍さん(兄)の娘が居る。
会いたいなあ。

近頃はすべてのものは遠い過去になってしまって何か一つもわかりません。

しまい。

平成23年6月27日

和歌之浦を一望する医大の13階のレストランで夕食をしました。
眼下には由良の叔父達の寄進した学校(明和中学)ありました。
由良の叔父叔母は個人の生活は終生キリツメて
もったいない事は大切な寄付は大きくした立派な人であったと思ひます。
偉い人達であったと思ひます。

ひがくれて7時半から音楽会に出ました。
たのしい95才の日々です。

私の子供の頃はピアノなどまだ見た事もない時代でしたが、
親がならわせてくれました。
安井先生という師はん学校の先生でした。

お父さん、お母さんありがとうございました。

平成23年6月28日

昨日自分でメモしたものをここに書きうつします。

95才とは実にあわれなものと思ひます。
メモを読みながらまったくすべての記おくがありません。

和子がもったいないから日記帳に書きうつせと云うので書いてみます。
記おくの片りんもないことを書くのでへんな気持ちです。

平成23年6月19日

今日は音楽会に行って来ました。
百人程の出えん者が居てとても盛大な音楽会でした。
ヒロシさんが音楽が好きなので方ぼうへつれていってくれてうれしい。
95才にして幸せな人生だと思ひます。

平成23年6月13日

昨日は大雨でどこにも行けなかった。
宏典が来ると云ったので、待ってたがとうとう来なかった。
足の付け根が痛いので、ちょっと歩きにくいけれど、
自分の足で歩けてうれしい。
無為徒食でじゅうぶんな生活をさせて頂いて有難い。
御恩報謝は心にも無くできません。

平成23年6月5日

95にもなったら何のお役にもたたんとお世話になるばかりであいすまんことです。
そのうちそろそろ出かけます。
はよういかなおじいさん彼女出来てしまう。
心配心配。
もしできてたらこっちも新しいのをこさえる。
そやが(そうだけれど)よっぽどしょね(性根)入れてさがしてもあんなええの見つからないよ。
急いでいかな心配や。
バイバイ。

平成23年5月10日

一泊二日で京まいりをさせてもらったけれど、
家に帰る頃は忘れると思うので岸和田の車止めで書きます。

御本山(西本願寺)の親らん上人七百五十回忌法要は盛大でありました。
大勢のおまいりカケ出しも広くしてました。

親らん上人の流罪に会った場所は北りくの地で
そこでお念仏がひろまり
私もお念仏様に会えて幸せでした。

平成23年5月5日

宏典の子供の賢太郎がもって来てくれたかしわ餅を草から食べておいしかった。
今日は何をしようかな。
何ど、うまいものないかな。

十時間もゆがいてやわらかくした竹の子をたくさんたくさん食べてうれしい。
大きな鉢に山盛りにあるのでうれしい。

自分の手を見たらさすが九十才の手だと思った。
この手は一生働かん手だったけどさすがに年のせいかしわよって来た。

私の心は仕事ぎらいだ。
この手様にあまり活やくさせてあげなかったけれど、
手様は今も私のために筆を持たせハシを持ち私もきらわずにはたらいてくれます。
手様ありがとうさま。

平成23年5月4日

今お好み焼きのおやつをすましたところです。
丁度十時です。

今日は何処へ行くのか、ときいたら、いけへんと云う返事。
誰か孫達来るか、と聞いたら、きえへん、と云います。

今日は一日中何しよう。
ちょうだいした命、むだに過ごしたらもったいないけれど、
どうしたら良いのかわかりません。
無為徒食の愚身。
合掌

平成23年5月3日

さあこれからカマヤマ苑へ行ってこうか。
今日は向こうでどんなことあるのやら、楽しみや。
感謝を忘れたらあかん。動物や、
ところで私は半分動物やなぁ、と思ふ。

アカンベー、ベロベロベー、これ書いていたら今日は祭日。
祭日はカナヤマ苑は休みと云った。
アホラシ。

和さん相手ならケンカも出来ず、それ云ったらあかん。
御ちそう作ってくれんようになる。

平成23年5月2日

自分ら二人なんと幸せやな、
食べたい時に食べてねたい時にねてほしくなったら二人で一杯飲んで
世界中にこんな気楽な日々をおくらしてもらう人間も又とないかも知れないなぁ。
心の中も何の心配もなく有難いなあ。
浄土真宗に教えを受け御開山様のおかげでもったいないことや。
この上はお念仏申すより他ない。
何のお役にも立たんのやから、
せめてお邪ませんように我が身をつつしみたいと思ふ。

平成23年5月1日

夜の夜中に巻きすしをあてにふたりでちょっと一杯やりました。
チョットも働かん者ふたりオヤジ様の留守中にアツカマシイことや。

平成23年4月19日

今日は若い人の月曜会だそうです。
和ちゃんは朝から御ちそうの用意をしています。
和ちゃんは楽しそうにしていました。
毎月一緒に食事をするから私もまぜてもらっています。
岡山のおばあさん(和子の姑)も一緒に食事をして楽しそうにしています。
和子はミドリさん(岡山のおばあさん)との会話は筆話です。
二人で楽しそうにしています。

平成23年4月18日

紘さんと和ちゃんと三人で昨日姪の元子ちゃんと遊んできました。

元子ちゃんは赤ちゃんの時会って以来、初めてのことでした。
幸せそうにくらして居てうれしかった。
兄の娘さんです。
戦争で会う事も無かったのです。

兄亡き後みどりさん(元子ちゃんのお母さん)も途方にくれたと思ひます。
私の実家も戦争の事情で大きく様変わりしてみどりさんも実家へ帰ってもらう事情になりました。
何か資産がほしいといったけれども資産さえも無くなって手ぶらで帰りました。
ハダカで戦後の日本の社会へほうり出されてどんなにか苦労であったかと思われます。

その時の赤ちゃんが立派に大人になって幸せそうに暮らして居ったのは涙のでる程うれしく思ひました。
元子さんもまたあいたいと云われたので私も時々会いたいと思ひました。

平成23年3月31日

和ちゃんが日記を書けと言うけれど頭の中がもやもやして何も書けません。

平成23年3月29日

今お茶をのんでいると
横で一所にお茶をのんでいた和子が
お母さんの人生で一番何が良かった?とききました。
私は足座にあんなやさしいおじいさんにめぐり会った事だと言いました。
おじいさんはなくなって十五年も経つのに私の心の中にいます。
おじいさんも信仰に厚い人でした。

おじいさんが一番だと言いましたが
お念仏に会わせて頂いた事を忘れていました。

お念仏様を大切にしたい。
人様にも伝えなくてはもったいないと思って冬野へ来たのですが、
たかが私の信仰心など役にも立たなかった様に思ひます。

ほんとうにお念仏に夜明けした人が居るかなあ、と疑問に思ひます。
おあみださま、すみませんでした。
ご恩を頂くばかりでお役にたてませんでした。
せめておあみだ様の邪魔だけはせんときたいと思ひます。

合掌

平成23年3月23日

久しぶりに日記を書きます。
近頃は和ちゃんの身体の調子が悪くて来てくれないので日記も久し振りです。
和子がねこんだら大変だと思ひます。
和子にかかる仕事が多いから和子に心配かけん様に私もがんばります。
カマヤマ苑の方々が良くして下さるのでさびしいと思う以外は何もありません。
家族のぬくもりは有難いものです。
冬野へ帰ってみたいです。

平成23年3月16日

高田さん(妹)の家へ家内中で行って来ました。うれしい事でした。

テレビによって東北地方の地しんによる大さんじの事を見ました。
只今の私は他様にお世話になるばかりですが、私に出来る事があればお手つだいしたい。

かって私も二人の子どもをつれて無一物のところから生活(満州から引き揚げ)を始めました。
日本人は尊い思想をご先祖から頂いています。

かならず復こう出来ます。合掌

平成23年3月4日

色々のことがさっぱりわかりません。
これからカマヤマ苑へ泊まりに行くのださうです。
何でとまりに行くのか和子が足のリハビリがまだのこっているのだと云ひます。
カマヤマ苑の事は忘れて覚えてないのですが一ヶ月もあそこに居たと和子が云ひます。
私はカズ子と一所にここに居たいのですが仕方が無いです。
カマヤマ苑へ着いたら思ひ出せうが今は心細い気持ちです。
これからオヒナ様見て出発します。

平成23日3月3日

おひなさんの日です。
和子はももの花や節句用のおもちを買いに行って来た様です。
おすしもあります。
おひなさん用のキレイなちらしずしです。
あま酒のコウジもあまく出来上がっているのでおいしく出来ると思ひます。
和ちゃんの子供になっているのでいつもいつも御ちそうで楽しいです。
もうー今度は子供です。
私は子供になりました。
これからおひなさんの前で御はんだそうです。

平成23年3月2日

前の日記を読み返してみたら冬野へ帰りたい帰りたいと書いていました。
私はズーット冬野に居たのだと思ひます。
かまやま苑に居たそうですがかまやま苑の事は思ひ出せません。
かまやま苑の皆さんのおかげでこんなに元気になったのだと和子が教えてくれますが、
カマヤマ苑の事は思ひ出せません。
我家はいたるところ花ざかりです。
オヒナ様も立派にかざってます。
これからイワシズシを頂くそうです。

平成23年2月28日

とうとう外泊許可が出ました。
うれしいうれしい。
冬野へ帰ります。
三泊四日だそうです。

和子は冬野の家でおすしを作っているさうです。
好子はおばあさんがすきなスキヤキをつくりなと云っているさうです。
台所の入り口から一帯にてすりをつけてくれているそうです。
三日の日は村田先生の勉強会があるそうですから、出席出来ます。
高田さんとこへも月半ばに行けるそうです。

うれしい事が一パイです。
帰るところがあるのはこんなにもうれしいのかと思ひます。

平成23年2月27日

三月一日に外泊許可が出るそうです。
久しぶりに我が家へ帰れると思ふと、うれしいです。
和子におすしを作ってもらえると思ひます。
なつかしいなつかしい我が家へ帰れます。
あおによし奈良の都は今花盛りなりけり。

平成23年2月24日

かまやま円(註:かまやま苑)に入院して一ヶ月ほどになる。
もう早く退院したいものだ。
家へ帰って毎日近所へ遊びに行きたい。
和ちゃんは毎日来てくれるけれど、一日中一所に居ると淋しい。

平成23年2月23日

紘さんが今日タンニショウ勉強会に出席の為出かけるらしい。
私も若ければ出席したい。

ほんまに『先師の口伝の心しん異なることをなげき後学相続の為に・・・・・』
唯えんさんのおかげで親鸞聖人のお心があきらかになった。
唯えん様がどうゆうお方か知らないが、
これを残してくれたお方に感謝します。

よう仏法様に会えて有難く思ふ。
やよいさんも仏法に会えた事喜んでいる。

平成23年2月22日

和子とずーっと一所にくらしていた様な気がするけれど
その家が何処にあったのかハッキリおぼえ出せない。
すまいが高台にあった様な気がするがそれもハッキリしません。
只今の瞬間の事しかおぼえていません。

只今だけがあるだけです。

和ちゃんとお念仏が時々たずねて来ます。

かまやま苑で手厚くまもられているので有難い。

和子は新しいネックレスをしていました。
誕生祝いに雄さん(紘)に頂いたのだそうです。

ひとつあったら私はあげなくって良よかろ。

平成23年2月21日

二月二十一日は和子の誕生日です。
和子が生んでくれて有難う、と云ひました。
私はこちらこそと答えました。

和ちゃんは七十一才だそうです。
随分大きくなったものです。
和子は満州で生まれました。
お父さんは大そう喜びました。

「おかい子ちゃんやらべこべこ」と云って子供をゆすって遊んでました。

お父さんのうれしかった事は一パイ思ひ出しますが、
オカイコチャンヤラベコベコの一言につきます。

平成23年2月19日

可愛いスイトピーを部屋いっぱいに生けてくれました。
この花はヤサシイので好きです。

今日これから散パツをして頂きます。
いつもは和ちゃんの散パツですが今日は本職のサンパツヤさんです。

平成23年2月16日

明日は梅林へ行く為許可が出た。
うれしいなあ。外出許可が出た。

平成23年2月14日

建国記念日も早過ぎ十四日になった。
孫達(本当は曾孫)は元気にそだっている。
私も九十五歳になり朝目をさますと、ああ、まだしゃばだったなと思ふ。

今生で念仏をきかせて頂いた事が幸せであったと思ふ。
今生の幸せは車窓の景色の如く過ぎ去っていくが、
念仏だけはしょうがいの幸せであった。

五人の孫に会いたい。
ひ孫までは念仏は伝わらまい。
子孫さえうとうとしいのに父は強信の人であったが
六人の子供の内念仏の伝わったのは私一人であった。

私は明治さんと二人で幸せな人生であったと思ふ。
明治さんは念仏の深い上に人格者であったので
いつくしみ深い人だったので私は幸せでした。
和子も雄さん(紘のこと)仲が良い。

平成23年2月12日

自分の日記の書を見て何と下手な字を書いているのでガッカリしました。
只今カマヤマ苑にて足の骨折の為リョウヨウ中です。
何時何処で骨折したのか全く気おくがありません。
馬様には失礼な事ですが馬齢を重ねる事九十五年、
只今は百歳迄命を頂きたいと願ってます。
其故は孫にお念仏を伝えたい気持ちで一パイです。

平成23年2月10日

ここでの生活は単じゅんなので何のかんそうもありません。
リハビリを毎日して頂いているらしいですがそれすらおぼえていません。
足をこっせつしたらしいですが自分では一向に不自由なこと知りません。

平成23年2月9日

朝からカマヤマ苑でお風呂に入れてもらいました。
職員の皆さんよくしてくれるのでお風呂も又楽しい。
和ちゃんは今日お友達のスミちゃんと花山温泉へ行くのださうです。
私も花山温泉は大すきで週に二、三回行った事があります。

平成23年2月7日

弥陀の誓願 不思議にたすけられまいらせて 往生をとぐるなり

たのませて たのまれ給ふ弥陀なれば たのむ心も我とおこらじ

弥陀たのむ 力さえなき我が為に さしのべ給ふ御手なりとは

月かげの いたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ

もったいない日ぐらしをさせて頂いています。合掌

平成23年2月6日

相も変わらずのカマヤマ苑での生活です。
もうすぐおやつを下さる時間でせう。
皆さんいつもの場所でまってます。

もう早く家に帰りたいなあ。

ここでは何もかも良くしてくれますが、
自発的にするので無いからスイセイムシ(酔生夢死)の様なものです。

平成23年2月5日

弥生さんが退院されたそうでうれしい事です。
脳コウソクでした。
人生無情。

ああ、ここでの生活は何も可もしてくれるので
自発的に何かをしようと云う気持ちはうすれて来ます。

今生からの引こしも間近いことと思ひます。
あの世からよびに来たらルスと云うつもりです。
早く冬野へ帰って自由になりたい。

平成23年2月4日

変化がとぼしいためか
次第次第に気力のおとろえてゆくのをわすれます。
家族と離れて暮らすのは淋しいです。

みだたのむ 力さえなく 我が為に さしのべ給う御手なりとは

リハビリの先生がよくしてくれるので
そのうち帰れるだろうと楽しんでいる。
おつむ天天カラッポ。

平成23年2月2日

もうすぐリハビリの時間だそうです。
こちらでは毎日私のリハビリを応えんしながらしてくださいます。
そのおかげで少し足がうごく様になってきました。
私の幸せのもとはおあみだ様のお慈悲の中ですまわせて頂いていることです。
心の中は日日おだやかです。
自前の人間性としては私は足りないところが先に目につく。
自我の強さをほんろうされた人生であったと思ひます。

平成23年2月1日

本日千客万来。
前田さん、毛呂さん、松尾さん、妙子さん、
なつかしい顔を次々に見えてうれしかった。
心の通う友人達にかこまれるとうれしい。

平成23年1月31日

弥生さんが脳コウソクになって日赤へ入院しているそうです。
弥生さんの病状はどうかと案じています。

平成23年1月30日

窓外の景色は冬野村が広がっています。
冬野で幾年くらしたのかな?と思ふ。

平成23年1月29日

スイセイムシ(酔生夢死)老いと云うのはこうゆうものかなあと思っています。

この生活で自発的にものを云うのは
オシッコとウンコにつれていってもらうのに自発的に云う時だけです。
職員の方は非常にこまやかな心配りで有難いのですが
やっぱり冬野へ帰りたい。
この部やより窓外には冬野が見えています。

あおによし ならの都はさく花の にうふがごとく今さかりなりけり

七八百年昔だから中国で生がいを終えると云う事はさみしかったでしょう。
通常りんじゅうを迎える時は身内のものにかこまれて
すみなれし自宅がこのもしいとされています。
きょうしゅうと云うのはそういうものでしょう。

しかし、念仏者のそれはおあみだ様にお会い出来ると思うと
何処で終わろうともみ仏様のうてなの中。
ああ冬野こいしい。合しょう。

平成23年1月28日

今日は村田先生の新年会だそうです。
村田先生の講義は本当に面白い。
私も家に居れば出席出来たのになあ。

私は勉強がすきです。
この年になっても学ばせて頂くことがすきです。
この会も二十年つづいています。

和ちゃんのしている会は全部二十年、三十年つづいています。
和ちゃんは自分は別段すぐれたところは無いと云ってます。
それぞれの会に立派な人が居てやってくれているのだと云います。
和ちゃんは私は単なるお茶くみにすぎんと云ってます。

ああ、冬野へ帰りたい帰りたい。

平成23年1月27日

かまやま苑では
今日は学生さんが一階のロビーで歌やゲームをしてくれるそうです。
変化にとぼしい生活なので楽しみにしています。

私は今一人で大きな部屋に居ますけど、
一へやで皆といっしょのところでも結こう生活できるのです。

ここへ来てもう五日目になるそうですが何もおぼえていません。
それと云って自分でする重要な事がないから
すべて他山の石なのでしょう。

そんな私にもお念仏様がしじゅう出入りして下さるのでにぎやかです。

窓外には冬野が見えます。
窓一ぱいに太陽が照りつけていっそう冬野がよく見えます。
和ちゃんが何回も見に来てくれるので、うれしいです。

平成23年1月26日

本日頭カラッポで何も書く事もありません。
広い大きなへやで一人居るので,他の人々に気の毒な気がします。

まどの外をながめたら冬野の景色が見えます。
ここからは消ぼう学校のたてものが見えてます。

おお、我がふる里よ。
五十年の歳月ここに居ます。

冬野へ来てほしいと云われた時
あんないなかでどの様にしてくらすのかと思った。
町そだちの我は
冬野のいなかでどんなにしてくらすのかと思ったが
おることができた。

よい家族があったからにぎやかでうれしい。
念仏申さず無為徒食に幸せに置いて頂いて有難い。

念仏は若き時たしなめと云われているが

平成23年1月25日

このくらしは味けない。
皆さんよくしてくれるけど味けない。
職員の皆さんが良くして下さるがやっぱり冬野でくらしたい。
なんでここに居るのかな?
帰りたい帰りたい。

平成23年1月24日(二回目)

おじいさんと暮らした満州の事を思い出そうとしています。

満州はとても広いところです。
吉林、カデンにいました。
吉林は風光明びな所と云われています。
日本の京都とも云われています。
京都はいたるところに神社、ぶっかくがありますが、
満州は大きい寺が所々にありました。

お父さんとくらした頃はとても楽しい生活でした。
お父さんは乗馬も上手でした。
やさしかった。
お父さんの事はいっぱい思い出があるはずだけど、
すっかり忘れてしまった。

もったいないわよ。

平成23年1月24日

かまやま園の朝です。
何を朝の食事は、何を頂いたのかまるで覚えていません。
車いすにのった老人が一ぱい居ますが
和ちゃんが居ないので丸っきりのこどくです。

ここの人は皆いきをしている様ですが、心が無いのか無表情です。
私もその一人になって居るのだと思ひいます。

ピンク色の服をきた職員のみがかいがいしく動いています。

早く冬野へ帰りたい。
おじいさんは15年ほど前に死んでいます。
和ちゃんが居ます。
和ちゃんはよく世話をしてくれます。
早く元気になりたい。

文字がかけるのでうれしい。
お父さんお母さんありがとう。
裕子は幸せです。

平成23年1月22日

カマヤマ苑へうつってきました。
冬野にもひろのり(孫)とこにも近い所にいます。
まだあまりよく周囲の事情がわかりません。

無為徒食の身が幸せにおいてもらっている。
酔生夢死、飽食終日いずれもいずれも私の事ですなぁ。
わすれてもわすれてもわすれぬ親がある故にわすれる者をその身そのまま。
合掌

平成23日1月20日

今日は晴天のヘイキレというか
富松弥生さんがノウこうそくでたおれたそうです。

和子は病状はまだ知らないですがおあいしたいと思う。
日赤へ入院。
私がすこし良くなったらつれていってもらえると思ひます。

弥生さんは私より十歳若いのに、皆次々とかわってゆく。
私も一度脳コウソクになった。
私もこんなに元気になったのだから、
弥生さんも元気になってね。

平成23年1月19日

昨夜の内九回お便所へつれていってくれたと云ってます。

若いから元気だと思ひますが、同室の人は次々退院するのに私は退院出来ません。
看ゴ婦さんや皆々様、やさしくって申分ないけど
私はこんなところはいやです。

早く早く早く冬野へ帰りたい。
小鳥になって飛んでゆきたい。

冬野はよいところです。
おじいさんとくらした冬野はなつかしい。
無為と食の身に皆々様有難うございます。

平成23年1月16日

テンテキをして左手をふさがれているので字が書きづらい。今日は手がイタイので書けない。

平成23年1月15日

いたいいたい、つまらぬつまらぬ。

おじいさん早よたすけてよ。
お父さんはやさしい人だったからいつも傍らに居てくれた。
私は良い奥さんだったと思ひます。
けれど、世間の人とくらべると気ままだったのね。

一つだけ残念に思うのは
お父さんの大切なお母さんにきびしい目で接してきた事ことだと思ひいます。
お父さんごめんなさい。
お父さんのやさしかった事思ひます。

和ちゃんは親せつだけど、お父さんには及ばない。
おとうさん、私をたすけに来て下さい。

とわ言うものの未だ生まれざる安にょうの浄土は恋しからず候こと、
いよいよ煩悩の向上にこそ力なくして終わるとき
かの土へは参るべきなり。
合掌

平成23年1月14日

横っぱらがいたい。
日に五回六回も便をするのでその都度看ごふさんにめいわくをかけます。

弥生さんが電話をくれたそうで私も電話に出たかった。
声ききたかった。
弥生さんの家も道まで段差あり私の家も道まで段差があります。
互いにお合いすることも出来ません。

平成23年1月12日

今日はミドリさんのたんじょうびです。
私達はここに居るので、紘さんと二人でするそうです。
おたんじょうびはいつも盛大にするのに今回は淋しいことです。

平成23年1月11日

シャワーを浴びさせてもらいました。
気持ちが良かった。

午後には初めてリハビリをするそうです。
しんどいけどきっと歩ける様になる。
和ちゃんはおばあさんだったらゆっと(きっと?)歩ける、と云ってくれました。
おはり。

平成23年1月10日(ここから再び本人自筆)

今日も足は痛い。
早く元気になってそこいらを歩きたい。
和さんは、そばにいても役に立たない。
おいしいものをたべさせてくれない。
あかんべ。

平成23年1月9日(孫が口述筆記)

痛い痛い。
何もいうことはない。
只痛い。
地獄の苦にはくらぶべきもなし。
あぁ、痛い痛い終わり。

平成23年1月8日その2(孫が口述筆記)

今日の日記の始まり。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
3ベン言っても5へん言っても十辺いっても痛いのには変わりない。
如何に痛くとも、地獄の苦にはくらぶべきもなし。
美味しいものは食べさせてもらうし、少々の痛みは我慢しよう。
私の日記は痛いで始まって、痛いで終わる。

痛いのがおさまったら、又色々変わったことも書きます。

平成23年1月8日 その1(孫が口述筆記)

手術のところが痛い、痛い、痛い。痛い以外に何も書くことがない。

平成23年1月7日(二回目。孫が口述筆記)

ベッドの上で寝てます。
今日は手術の日です。

痛くないか知らんけど、怖いです。
後は又痛いんでしょうね。

(女孫二人に)二人で霊気(レイキ)をかけて頂戴ね。
こんな時霊気はよく効きます。
はいもう終わり。

平成23年1月7日(和子が口述筆記)

なんて悪い日でしょう。
悲しい、悲しい、悲しい。
今日は悲しい手術の日です。

痛くないようにしてくれたら私の全財産を差し上げます。
私のお金は賽の河原のお金のようで、一銭やら五銭やら数えてみなはれ。
全部使えんお金ばかりやけど、ほんまに手術せんと治してくれたら、
私の財産全部差し上げます。

今はもう、痛い以外何も考えられん。
あーあ、美味しいもの食べたいな。
あー痛い痛い。

お父さん、あんた優しい人だったから、女房がこんなに痛い目してるのに助けてよ。
お浄土で彼女と二人遊んでたらけしからん。

あーぁ、そこどこでない。
痛い、痛い。
和さんは絶筆になるやもし知れんからちょっと書いとくことないかと言うけれど、
痛いばっかりや。
そこどこやおまへん。
痛い痛い。
何せ今日は悪い日でしょう。

平成23年1月6日(孫が口述筆記)

痛い、痛い、今日も痛い、痛いという言葉で始まった。
痛くとも地獄の苦には比ぶべくもなし。

がんばれがんばれ、今日は何して遊ぼかな。
レンゲを摘んで遊ぼかな、ままごとして遊ぼかな。

山東のお寺の南の縁で無心に遊んだことが思い出される。
やさしいおばあさんだった。
私が気に入らないと、「おばあ悪りよう、おばあ悪りよう」と泣いたことが思い出される。
(山東の寺:裕子が5才から8才まで両親渡米のため3年ほど兄と共に預けられていた母の実家)

平成23年1月5日(二回目。孫が口述筆記)

久しぶりにおじいちゃんの写真を見て懐かしく思った。
(孫の夫が古い写真を見やすく引き延ばし、厚紙に貼り付けて持ってきてくれた)

満州での生活も随分楽しかった。

おじいちゃんは、いつも優しい人でした。
おじいさんは大阪外国語大学で中国語を習って卒業しました。
発音がよいので演説するときには北京語でしました。
中国の行政官、日本で言う知事さんをしていました。
皆によく受けました。

平成23年1月5日(和子が口述筆記)

今に見ていろ!僕だって、見上げるほどの大木に。
小学校3年の読本にあったと思う。
この文章がしきりに心に浮かぶ。

私はベッドに寝たきりで、自由にならん。
早う自分で立って歩きたい。

咲いた咲いた桜が咲いた、野にも山にも桜が咲いた。
紅葉の花は赤いな。
紅葉渓にも行きたいな。
京都にも旅行したいな。

京都の学校時代は日曜のたびに寄宿舎でお弁当を作ってもらって
友だち達とタクシーや電車で社寺仏閣を片っ端から総なめに行った。
楽しかった。
大勢でタクシーに乗るときは定員より多い分、
伏せと言って交番の前では外から見えんようにして楽しかった。
京都では楽しい学生生活を二つの学校でしました。

お父さん、お母さん、楽しかったことを有り難う。
裕子は昔も今も幸せ者です。
ありがとう。

平成23年1月4日(和子が口述筆記)

えらいこっちゃ。
4,5日したら手術らしい。
こりゃ、ただ事ならん。

否でも応でも悪いところがあったら手術せなしょうない。
辛いつらいつらい辛い。
えーん、えーん、えーん。

今笑いながら言ってるけれども、ほんま笑い事やない。

身体の一部でも悪けりゃ、手術せなしょうない。
またえーん、えーん、えーん、えーん。

先生どうぞ、痛くないようにお願いします。
病院の生活、味気ない味気ない味気ない。

平成23年1月1日(和子が口述筆記)

年の初めのためしとて、終わり名古屋のめでたさは松竹たてて、
冬野のお寺で、皆様と新年を祝いたい。
皆で一緒に甘酒で祝いたい。

家族の正月はお沢さんの謡で始まり
順にお父さんから屠蘇をよばれて祝い膳を囲んだ正月が懐かしい。

今年の私は病院のベッドで寝てて、しみじみと長寿であったことを味わってます。

大正、昭和、平成と3世に渡り、
その間、戦争もありその間二人の子供を養うのに行商もし、
幾多初めての経験もしました。
悲しいと思う間はなかった。
食べるために前へ前へと進む一方でした。

母はまさかこの子に行商をさせることになるとは思わなかったとさめざめと泣いた。
書生や女中に守られて育った身が雄々しく立ち上がった姿。

しかしながらすぐに病に倒れ、
やがて4年ほどしてお父さんがシベリアから帰ってくれて大きく安堵したことでした。

今は冬野の寺におさまって家族に手厚く守られ、この上ない幸せな日々です。
幸い仏教学院も卒業したので住職の勤めも私なりに果たしました。
思い返せば、我の強い、仕事から逃げたい、ばかりのお山の大将だったのに
皆々様のお陰で、このままの私を後生は勿論、今生も受け入れてもらいました。
幸せな95年の歳月でした。
(この日はまだまだ続けて言いたがりましたが、筆記者が懇願してこのぐらいにしてもらった)

平成22年12月30日

ああ、いたい、いたい、さりながら地ごくの苦にはくらぶべくもなし。
サイセイカイ病院に入院して3日目です。
毎日寝てて御飯を頂いてつらいつらいつらい。

しかし、看護婦さんがうんこをしてもやさしく手当をしてくれてうれしい。
和ちゃんがそばにいてちょっと意地悪だけど親せつにしてくれてうれしいうれしいうれしい。
もうおしまい。

紘さんに不自由かけてすまぬことです。
早く帰りたい。合掌。

平成22年12月29日

住みなれし苦悩の旧里はすて難く
未だ生まれざる安養の浄土は恋しからずそうろう事、
いよいよ煩悩のこうじょうにこそあれ。
力なくして終わる時、彼土へは参るべきなり。

正にその通り、私の今の心は只今は足の骨折にて
身動きも出来ず病院のベットの上です。合掌。

平成22年12月27日

もう四日したらお正月です。
かぞえ年では97才になります。
無為としょくの身でよくまあこの年まで置いて頂けたなあと思ひます。
念仏も尊くもったいないと思ひます。
(この後、転倒で大腿骨骨折し入院)

平成22年12月26日

今朝も洗たく物を干せて手足が動いてうれしかった。

平成22年12月25日

今日はクリスマスやが何か良い事あるかと考えたら
和子は昨日もう夜の町へ出て食事を楽しんだと云います。

私は行ってないと思ひます。
ちょっと和子にだまされているのかなあと思ひます。
近頃もの忘れがひどいからうそとも一がいには云えませんが、
ちょっとおちょくられている気がします。

体力気力このいずれもから見はなされてゆく様ですが、
お念仏様と二人づれで楽しいです。
これから弥生さんとこへ遊びにゆこうと思っています。

平成22年12月23日 その2

お正月の年玉(在所への新年のご挨拶)を包むの少し残っているので今日は仕上げます。
私もなかなかよく活やくすると思ひます。
お父さんお母さん健康なからだを下さって有り難う御座います。
よもの神々おまもり下さって有り難う御座います。

平成22年12月23日 その1

和ちゃんは朝から1回目の洗たくを終えました。
家の洗たく器は特別大きいらしいですが、今日は3回もしました。
正月前でシーツ類も皆洗うらしいです。
たいへんだね―と云ったら、
電器もきてくれるし洗たく器もきてくれるし楽に仕事が出来ると云ってました。
和子は皆に助けて頂くからちょっともしんどくないと云うてました。

平成22年12月22日

和子は今栗須さんが来てくれると云って楽しんで待っているところです。
栗須さんと色々彼地の話を聞きました。
和子と栗須さんとではとりとめのない話をしている様ですが、とても仲が良い様です。

平成12年12月20日

只今午前四時です。
二人で梅酒をのみました。

テレビはヨーロッパの町並みをうつしてます。

頭の中に何も無いけど、何かを書こうと思ってます。

永らく旅行をしてないのでしたいと思ひます。
京都か白浜と思っています。

目もみえ,足も動くので、有難い。

平成22年12月19日 その2

思いつくままに。

ひろのりさん(孫)がおそうじに来てくれました。
やさしい人柄です。
私は先に死んでもひろのりさんが居るからにぎやかだと思ひます。

妙子(孫)も好子(孫)もみな居るから心配ないと思ひます。

(註:私が死んでも)なかんといてほしいと思ひます。

いずれ又お浄土でおあいしませう。

私は一足先におじいさんに会いに行くことになると思ひます。
毎日が非常にたのしくくらしています。

平成22年12月19日 その1

今日は内観の集い(竹子会)の方々がおそうじに来てくれました。

お正月の用意がだんだん出来ているので、和子はうれしいと思ひます。
和子が考えている事やしている事を見るのがたのしいです。

平成22年12月17日

村田先生の勉強会がありました。
この先生の講ギは大好きです。

今日のこの日私はつくづく幸せ者だなぁ、と思った。
念仏する身にして頂いた事は幸せ。
なにもかも幸せ。

これ、以上望むところは少しもありません。

平成22年12月13日

因果の理法からこぼれてる私やな―とつくづく思うよ。
此の様な幸せ者があるはずがない。
(註:悪い行いをすれば自分に返ってくるのが道理なのに
自分のような罪深いものがこのように幸せに生活させてもらっている。
因果の道理から外れた幸せは仏様のお力のお陰に違いない
というような意味です。)

もったいないことや。
ああ、ありがたやありがたや。

平成22年12月12日

今日は日曜日なので紘さんの誕生会をするのだと和子が云ってます。

朝早くから御馳走つくりにかかったので私も手伝いました。
孫達は来るかどうか分らないと云ってます。

私は皆が来てよんであげてほしいなと思ってます。
和子は早くから皆によう連らくしなかったようです。
年老いてきたのかなぁと心配です。

これでおしまい。

このあいだサーカスへ行って楽しかった。

近頃は以前の事忘れていることすくないです。
お念仏は私はわすれていません。
有り難う御座います。

平成22年12月1日

十二月と教えてもらったので驚いてます。

光陰矢の如しといいますが、ほんとに月日の経つのは早いものですね。

和歌山城のモミジ渓で一日遊びました。
子供の頃からモミジ渓はいつも遊んだところでなつかしいです。
和子と手をつないで山の上から下までくるりと回りました。
足が丈夫で有難いです。
よぼよぼしてますが有難いことです。

かえりに市役所へよったら玄関のところに
和歌山の偉人として由良(由良浅次郎)の叔父の事が書いてありました。

大きな財をなしておったので方々へ寄付をしたり色々社会事業をしてましたが、
自分自身は非常に質素な生活をしてました。

えらい人だと思ひます。

日本の化学工業の祖として多種多様な化学製品の製造業が
叔父の研究を元として出来たと書いてましたが
私は社会的に立派な人は私生活が乱れる人もあるのに
自分におごらなかった生活態度は実にえらいと
偉人の名に恥じないものだったと思ひます。

平成22年11月29日

今朝は三時頃から目がさめたので、和ちゃんとゆっくり床のなかで話をしました。
何を話したのかおぼえてませんが、くだらん話を二人でしていたのかなぁと思ひます。

起きてからはシンポジウム(第20回心のシンポジウム)の時
印刷しそんじた紙が沢山あるのできってホッチキスでとめて
みどりさんと筆談をする時につかうノートを沢山沢山つくりました。

これだけあったらまた三ヶ月ほど紙が不足してないと云ってました。

ミドリさんがよんだら私にも見せてくれる時があります。
私も書くがへたですが和ちゃんも字がへただなぁと思ひます。
おじいさんに似たら良かったのにと思ひます。
和ちゃんはおじいさん好きだったようです。
おじいさんの書いてくれたものをあちこちに置いてます。

おじいさんは優しい人だったので
あの世でもちゃんと私の席を置いてくれていると思ひます。
イット(ひ孫)の結婚式がすんだらそちらへ参ります。
もうしばらくこちらで遊んでます。

くらしぶりは以前とすっかり変わって老いさらばえましたが
おじいさんそちらから見えてますか。
裕子は非常に幸せにくらしてます。
なつかしいおじいさんへ。
おじいさんの事は忘却の彼方へきえてしまうのは残念です。
また浄土でお目にかかったら新たにつくりましょう。

平成22年11月27日

今日は神妙な事を朝から考えていました。

和子が「長生きをしてくれて有り難う」と云ったので、
「皆様のおかげで」と口先ばかりのことを云った時
ほんとうに口先ばかりだったなあと心の中で思ひました。

わがままいっぱいで、おまけに大分幼稚な生きざまであったと驚いています。

自分ではなかなか立派にやって来たと思ってたのは事実ですが、
はずかしい事をした様な気がします。

この上ない家族に恵まれてお念仏様のうちに日々幸せにくらさせて頂いてます。

有難いことです。
有難いと云う心もかざりものの心です。

かざりものばかりの心かなぁと思ひます。合掌

平成22年11月24日

朝、和ちゃんと会えたので「又会えたなぁ」と云ったら
「私は何のコウケンも出来ず、世話になるばかりやなぁ」
と云ったら
「生きていてくれて大きいよ」と云った。

平成22年11月23日

むかしは建国記念日であったなあと思われます。

小学校時代の事がなつかしく思われた。
小学校時代私は走りが早くて番丁の赤鬼と云われた。

和ちゃんの一日はかなり忙しいなぁと思われます。
考えて見たら非常に忙しい。
複合的に色々あります。
けれど何時もにこにこと働いています。
つかれこんでる時もありますが、心がいつもおだやかにしています。

むかしの人の歌に「病原をえてひとえに之を楽しむ」とこそ云っている。

立派なことを書いたからこれでおしまい。やーめたやめた。

平成22年11月22日

「弥陀の誓願不思議にたすけ参らせて
念仏申さんと思ひ立つ心の起こるとき
摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり。」

老いて若き日のすべての状態から離れられてゆく時
いよいよお念仏様がなつかしい。

お念仏様の一人ばたらきでこの私の口から念仏が出てきてくれる、
頭も何もかも忘れてしまうのにお念仏様だけがこの口から出て下さっている。

ありがたいありがたい。合掌

平成22年11月21日

今日は何処へ遊びに行こうかなと考えています。

テレビで紅葉の便りありました。

和子におべんとうを作るように云ってますが、ハッキリとした返事をきいてません。

公園(註 和歌山城)のもみじ渓へ行ってこようかな。
とてもよい天気です。

平成22年11月20日

今日はよく寝たので朝食をすましたら十時に近いです。
テーブルに色々と並んでいたのですが何が並んでいたのか忘れました。

この様にして何もかもから忘れてゆくのでせう。

その中にあって「忘れても忘れぬ親がある故に忘れる者をその身そのまま」。
ああ、有難や有難や。

私の口からはお念仏様がしじゅう忘れずに出入りして下さいます。
干天に慈雨と云うけれど身中に頂戴しているモウサイ血管をかけめぐって
ブツブツとお念仏をきかせてくれます。

今日も日記が書けて良かった。合掌

平成22年11月19日

今朝は書く事がないのでこまってます。

庭に出たらさむかった。
赤芽がしの芽が真っ赤だった。
紘さんが草花を植えてくれるので庭先にはいつも花が咲いてます。

何かとても書くことが無いので困ってます。

平成22年11月18日

かなやま苑で一晩泊まって来ました。
皆さんとてもよくして下さる。
なんの不自由も無く暮らしたのですが
うちの家へ帰って来たら帰る家があると云う事を有難いことだとしみじみ思ひました。

和さんがむかえに来て呉れていたので、アカンベー云ひました。
やっぱり家はゆっくりして良いですね。
夕食すんだからやすみます。

平成22年11月16日

昨日ドライブした事を思ひ出しました。
紅葉がとてもきれいです。
今年も紅葉を見る事が出来たとよろこび合いました。

満州で主人が抑留されていたときこれはこれはと思ひましたけれど
よくもまぁ今日まで生きのびられたものですね。
このよい景色を眺められるなあと和ちゃんと話し合いました。

忘れましたが色んな事があったのだと思ひます。
和ちゃんはいつもこの長い月日を有り難うと云ってくれます。

平成22年11月12日

たまに旅行しようよと云ったら、
和ちゃんが今年は一回だけど昨年は五回も行ったのやと云われたので驚きました。

京都二回伊勢一回白浜二回で随分驚きました。

ほんとかうそか分かりませんが、そういってます。
多分そうだと思ひます。
此頃は記おくがさっぱりありません。

伊勢のあの長いジャリ道を歩いた記おくが無いと云ったら
以前は人力車(註 車椅子のこと)で重たかったが、
今回は電動でかるかったと云いますがみどりさんと二人分車いすをかりたといいます。

「なにごとのおわしますかは知らねどもただ有難さに涙こぼるる」こんな気持ちで通ったのかなあと思います。

平成22年11月11日

みどりさんと二人朝から散ぱつをしてもらいました。

みどりさんは一月一回の散ぱつで私は一月二回です。

みどりさんの毛は集めてもちょっとしかありませんが、
私の毛はいっぱい集まります。
みどりさんは御はんはあんまり食べないで
お菓子を沢山めし上がりますからかみの毛があまりのびないのかなぁ。
私はあまり食べものにすききらいが無いから、食べたものはすべて吸しゅうされるのかなあ。

散ぱつ代ためておったら大金になっているのになあー。

平成22年11月10日

兄の娘の元子さんがまいにち日記を書くのをすすめてくれるので老骨にむちを打って書いています。

兄は昭和21年の18日に戦病死したと聞いています。
元子さんはミドリ(註 翠)さんと兄との間に出来た子供です。
元子さんは家へ内観に来てくれたさうですが、私はお目にかかっていません。
是非ともお目にかかりたいものです。(註 実際は会ったが既に忘却)

今日は書く事がないので只今困っています。
和ちゃんが書け書けと云うが、てつだってくれないのでさっぱりです。

今朝の食事のデダートは柿四分の一とバナナ二分の一だそうです。
テーブルの上に紘さんとみどり(和子の姑)さんと私と三人分きれいにならべて置いてくれました。
ナットウ四分の一、うめぼし、それ毎日のことです。
みそしるもあります。

毎日味噌汁、捨てんとのんでよ、と云われます。
私は味噌汁大キライ。

平成22年11月9日

和ちゃんが私達がたべるおかゆの玄米をいっています。

大変な仕事です。
だまってよくしてくれています。

私は(自分が)鉄面皮だなあと思って家族にいいました。

鉄面皮ってどんなふうに思って云っているのよと云ったので、書きたくないけど書きます。
今までは人に対して鉄面皮と云ふ言葉をつかった思ひます。
外相(註、げそう)にはその様な姿は見せなかったと思うけれど
我執にみちみちた心で己に理をもってきて他者を裁き通した。

いずれもいずれも尊い人柄であったのに裁いて来たなあと思ひます。
そこから学ばうと云う姿せいは無かった思ひます。

我こそ恥ずかしい鉄面皮であったと思ひます。

この様な者だのに、まいにち幸せにすごさせてもらっています。
よもの(註、四方の)神々にお礼を云いたい様な身も心も、もち合わせていませんでした。
おさわさん(姑)によく似た和ちゃんとまいにちよく話をしています。
よい娘にめぐまれたものです。

アカンベー、わしがおしめをかえてやったんだ、おぼえておけよー。
どんなにあがいても私は私よ。

平成22年11月8日

紘さん(娘婿)は自然のものを採取するのが上手です。

ギンナンを沢山拾って来てくれたので、和子が一年中料理するのに充分あります。
ワラビ、シソの実、タラの芽、色んなものを取って来てくれて家内中よろこんでよばれています。

私は(紘さんを)ちょっと変な人やなあと思われることもありますが、
和子とは相性が良いのか仲が良いようです。

私もおじいさんとは一度もケンカしたこと事が無い様に思われます。

私の両親はイトコ結婚でしたが、よくケンカをしていました。
母がイトコの家へ行って一ヶ月程帰って来なかった事もありました。

和子は私たち夫婦が仲が良かったので幸せだったと云ってくれました。
私は弁護士の娘で負けるケンカはしないと云ってました。
私は強いから何時でもケンカ出来るのですがおじいさんはケンカに乗らなかった。

平成22年11月7日   くもり

朝日記を書けと云われたので昨日のことを書きます。

和ちゃんが少し云ってくれると思い出します。

昨日は房ちゃんがおすしをくれたので皆でいただきました。
色々のものを乗せたきれいなバラズシでした。
うんとあまいなぁとおもいました。
ミドリさんは甘いもの好きだから喜んでいたのを思い出しました。

私は岩崎順子さんのお話をききに行きました。
一番前に座ったのでよく聞こえました。
何だか私の事を云っていた様です。
和子が立って云っていた様に思います。
(岩崎さんが裕子について少し触れて下さったので、和子が皆さんに立って会釈したことを言っています)

頭はおとろえたと思ったがこれだけ書けたのだからたいしたものでね。

平成22年11月6日

今朝は四時頃和ちゃんと二人目をさましました。

寒いので床の中で話をして六時になったので和ちゃんが起きると云ったので私も起きました。
することが無いので私も起きました。
することがないのでじっとしていたら、日記を書いたらと云ったので書き始めました。

朝に日記を書くのはどうかと思う。

日記は一日の終わりに書くものですね。
和ちゃんは私のリハビリと思って日記、日記と云ふのでしょう。
しょうがない、しょうがない。
親のご苦労のおかげで九十才に書はかけるし有難い、有難い。

平成22年11月5日

和ちゃんが朝ご飯をつくっている前で日記を書けと云われたので書いています。

何処の世界に早朝に日記を書く人がいましょうか。

和さんの命令ならしょうがない。
毎日御馳走をよばれるのだからアイツの云ふこと聞かねばならぬ。
しかしアイツの口車に乗るお陰でちょうどよいリハビリが出来ていいね。

今日は何して遊ぼうかな。

先は弥生さんとこへ遊びに行こうかな。
弥生さんとはとても仲よしです。
弥生さんとこか房ちゃんとこへ遊びに行くのが毎日の日課です。
いいご近所があってうれしいです。
遊びに行かないご近所の皆さんもよくして下さいます。

朝のデザートは柿のようです。
今朝はケーキもあるようです。
和さんのおだてに乗って沢山書いた。

平成22年11月4日

元子ちゃんからお便りを頂いたので驚いています。

私は近頃もの忘れはひどいけれどだれからもお便りを頂いた事無かった。
何度もよみ返してみました。
わすれてはもったいないので日記に書きうつします。

(元子さんにご承諾頂きホームページにもそのまま転載します。)

裕子おばさま

その後お元気ですか?元子です。
先日おばさまにお会ひできてとてもうれしかったです。
お会いできなかった長い長い間もずーっと
おばさまのお心の中に置いてくださっていた事を知り感謝の念で一杯になりました。

おばさまがそうしてお心にかけて下さっていたお陰で
いい養父母に出会いいい夫に恵まれて今日の私があるのだと痛感致しました。

おばさまの透明ですがすがしくユーモアのある楽しいところ、
自然に仏教帰依されてなお近寄りがたくないところ、おやさしいところ、みーんなみーんな大好きです。
おそうじ家事嫌いなところ別な意味で大好きです。

和子さん紘さんに余裕のおありの時ぜひ私のところに来て下さいね。
私も掃除家事大キライで和子さんの様なケライもいませんので汚いままですが、
でも週に一度は夫が階下だけ掃除してくれますので
おば様がお召しのお衣装もそんなに汚れないと思ひますからご安心ください。

おばさまにお会ひできました事ほんとうにうれしく感謝しています。

どうぞ、益々お元気で毎日日記を書いて下さいます様おねがひ致します。

では又 このつづきはお会ひしました折に さようなら

平成22年11月3日

素適な素適な裕子おば様へ   山本元子

私は素適な人でも何でもないですがお手紙を頂いてうれしかったです。
この日記はなくさない様にしようと思ってます。

平成22年11月3日

文化の日

今日は発日でお休みです
ゆっくりしませうねと和ちゃん みどりさんに話してました

和高女の運動会の日でした
あの頃の友人達はどうしてるのかなあーと思ひます。

今日もとても良い天気です

和高女の運動会も雨の日は無かった様に思ひます

平成22年11月2日

今日あたり、遠出の散歩をしたいと考へています。

紅葉にはまだ早いけれどなじみのある京都の寺々、
写真がテレビで放送されていたので、何處かへ行きたくてたまらない気持ちになってきました。

京都に足が及ばなければもみじ谷(和歌山城の庭園)とまででも行きたいなあ。

和ちゃんに云ったら何とかしてくれるだろうと思ひます。

コラ和子わしの家来の和子
ご主人様のねがいはかなえよお

平成22年11月1日

十一月一日と和ちゃんに教へてもらって正月が近いなぁと思って驚きました。

正月の年玉(在所の方々への新年のご挨拶)はもう書いたので安心してゐます。

光陰矢の如しと云うがほんとに早いものですね。

蓮如上人のお言葉かと思いますが
「いまだ万才の人身をうけたりと云う事をきかず、一生すぎやすし
いまにいたりてたれか百年の形たいをたもつべきや
我やさき 人やさき けふともしらず あすともしらず おくれ さきたつ人は もとのしずく」

私も近頃はいよいよ年をとったと思ふことがあります。

ゲンカクやゲンチョ―も時々でてきました。

見にくい事しきりです。

しかしながら、日々の生活は やさしい家族にまもられ しあわせに日々をくらしてゐます。

めいの元子ちゃんも幸せな一生をおくったと云ったのでうれしかったけれど
一点のくもりも無い安住の境地にて、ともに手をたづさえて法味を味わいたいものです。

昨日皆でスキヤキを食べたのに私はおかゆさんでさみしかった。

みどりさんはおいしそーに食べていた。

和ちゃんの御ちそー 早たべたいです。     合掌

平成22年10月31日

昨日はめずらしい人に会いました。
兄の卓龍さんの子供に元子さんという人に会ひました。
兄は満州で戦病死をしたので母親のみどりさん(註、兄嫁翠 故人 )に連れられて
満州から帰ったけれど私の実家で居ることが出来ず他人様の手で成人させていただいた子供です。

和子とは交流があったらしくて内観に来てくれました。

私は初めて見る元子さんの顔を眺めて、胸がいっぱいになりました。
元子さんも嬉しそうに私の手をつないでくれました。
そして、私は幸せに暮らしてきましたよ、と言ってくれたので私は何よりも嬉しく思いました。
父や母にもその言葉を聞かせてあげたかった。

戦争からこちらのことは私にもいろいろのことがありまして忘れてしまいました。
順調にいった人たちのことは念頭にありませんが、
交流の途絶えて安否の分らない人のことはいつも心底にありました。
幸せに暮らしたという元子ちゃんの言葉に千万金にも代え難いうれしさに満ちました。
くたびれた、これでおしまい。

平成22年10月25日

兄の卓龍さんの子供のモト子さんが内観に来られました。

みどりさんとの間の子供です。
みどりさんは奈良の女高師を出た人です。
兄が死んだので赤坂(私の実家)の家をさった人です。

みどりさんも戦争で大きな打げきを受けた人です。
モト子さんは何の仕事をされたかわ知りませんが立派に成長されました。

何でもすぐに忘れてしまうのにこれはおぼえていてふしぎです。

平成22年10月24日

今日は檀家の方達来て庭木の手入れやらおそーじをしにきてくれました。

にぎやかな声が空にすいこまれる様です。

報恩コー(お寺の大きな行事)も近づいたのですね。

和子は朝早くからお汁やお茶の用意をしていました。
おべん当は買ってくれるさうです。

私は何も出来ないのでたゞぼかーんをしているだけです。

平成22年10月22日

今日古典の勉強会(如月会)で私の誕生日を皆さんで祝ってくださった。
テーブルにイッパイに並んだ御馳走で皆さんでならんで食べました。

近頃は昨今の事はスグ忘れる様になりました。
これを見ていよいよ最期も近づいたかと思われて念仏も出てきます。

忘れても忘れぬ親がある故に忘れる者をその身いてのまゝ、あゝありがたいことです。
合掌

和ちゃんが誕生祝を四回もしてくれたと云ってます。

平成22年10月18日

先のページを見たら八月十四日でした。
驚きました。
ずいぶん書くのを忘れていたのですね。
近頃はもの忘れもひどくなりました。
それだけ年よりになったのですね。

この夏は一日も病気にならずにすごしたので毎日何をして過ごしたのかを思ひます。

静に居るときはいつも口から念仏がほとばしってゐます。
仏の常にまもってゐるのですね。

和ちゃんは毎日御飯をたいてゐてくれてゐるし
太陽も水もいつも私をまもっていてくれてます。
感謝したことない。
はづかしい はづかしい。

平成22年8月14日

今日はぼんの十四日です。

ひろのり(孫)も朝早くから来て紘さん(娘婿:住職)と手わけしておまゐりをしてくれています。
ひろのりは中学校に行き出した頃からおまゐりに行ってくれています。
ひろのりはもの静かでやさしい人です。
近頃はチョット理くつっぽいなぁと思ふところもあります。
人々は誰でも知っている理くつだから云わん方が良いと云ってます。
和ちゃんに私はひろのりに云ってあげなと云うけれど、その内気がつくと云って云いません。

今日はぼんの十四日です。昔はいたるところで輪になって踊ったものです。

ぼんの十四日におどらぬ者はねこかたぬきか空とぶ鳥か

おぼんは木蓮尊者がお母さんをおくようした時から始まっています。
私の心の中にも木蓮尊者のお母さんの様な心が一パイあります。
今にしておもったのは我執であった。

我執におぼれて苦しむ私をおすくいくださって有難いです。

平成22年8月10日

テーブルにサツマ芋一個置いてます。
その芋から可愛らしい芽が出てます。

机の上に置いてながめるのも又一趣です。
水もあげてないのに中から芽を出した葉ばが沢山出ています。
もの皆大きなおはからいの中に生きているのだと思ひます。
私もこの世においてもらってます。
無為徒食の身ですが、誰もとがめる者もなく安のんにくらしてます。

今日は東横インへ泊まりにつれて行ってくれる日ださうです。
みどりさんの時は私は留守番ださうです。
(遠くへの旅はなかなか出来ませんので、
和歌山に新しくできたビジネスホテルの最上階にみどりさんと、裕子がそれぞれ、
月に一回泊まりに行ってます)

私は留守番の時はチョットいやです。

平成22年8月7日

今日はみそをつけ込んでゐます。
日本には平安時代からみそをつくる習かんがありました。

金山寺みそは和歌山が発しょうの地だそうです。
金山寺味噌はコージでも五種類程ねかすそうです。

白米、もち米、むぎ二種類。
具は白瓜やショーガを入れてゐるさうです。
色がきたなくなると云っています。
全部で五升つくるのだと云ってます。

平成22年8月6日

おぼんまで一週間です。

近頃は何もかも忘れやすくなって今朝は三回も御飯を食べたさうです。
ほんまかうそか和さんの口車にのってゐるのかはっきりわかりません。
口しめられへんのやから、まあ有難いことです。

もうすっかり頭を置いて来ました。

かねてより聞かせて頂く通り唯今の瞬間があるだけで何もない。
因縁化和合とさせて頂きましたがほんとにその通りです。
スカンピンでもお念仏の出入りしてくれる口だけあって有難い
たのまれてたのませ給ふ弥陀なればたのむ心も我とおこらじ

平成22年8月4日

今朝はもうお風呂に入ったしさっぱりしています。

朝からハシモトの方向にドライブにつれていってくれるさうです。

これから朝食です。
色々あるけど以前の様にはしてくれなくなりました。

和ちゃんも年をとったのかなあと思ひます。
早く御はんを食べたい。
ズイキの煮たのは珍しくてうれしい。
大方30品目ぐらいはあるのでせうがごった煮が多いです。

平成22年8月3日 晴

今日も又カンカン照りがなあ。

今日は子供やお母様達がお堂へおまいりをしてソーメン流しに参加する日です。
昔子供文庫に来てた人たちが大人になって又来られて、
子供達の為に寺に来てソーメン流しをする会です。

おまいりの後子供達にさしあげるお菓子が台所にとゞいてゐます。
ナイロンの袋の中に子供のよろこびさうなお菓子が七種類も入っています。

和子は云っていました。
松尾さんとこにこれを入れるのに大きな仕事をさしてくれたのだなあと云ってました。
和子がおばあちゃんから傳わった合掌の心が今に傳はつていると云ってました。

私も周囲の人や親から教はりました。

親も又釈尊が傳えてくれた命がけのお念仏です。

子供会のお菓子を買ったりお堂のお花やお堂での御ちそーの代金は月曜会の人々のお供えの金でまかなっているのださうです。

こゝにも外護の仏様がゐると思ひます。

私も一助の人間でありたいけれどなかなかそーはゆきません。

いたづらに無為徒食の生活です。

平成22年8月2日

和ちゃんが朝草とりをするの

少し前は家のしごとをして四時半には草とりを始めたが今は五時頃よりするさうです。
朝はおそくなってきたさうです。

今日は月曜会です。
この集まりはもう三十五年ほどつゞいてゐるさうです。
和子のお友達の会ですが、
生きざまのハッキリしたそれぞれ個性のもった会ださうです。

平成22年8月1日

大ぶなまけ者になった様です。
もう一ヶ月近く書いていません。

家内中一同市長選に行って来ました。

私は書きましたがミドリさんは岡山の人だから行っただけだと思ひます。

若い人達にまもられてゐるから私もミドリさんも安心して毎日をくらしています。
ミドリさんの室も私の室も常にてき温で心地よく暮らさせて頂いています。
お浄土は何所にあるのか知りませんが、私の毎日はまるでお浄土のくらしです。

有り難うございます。

平成22年7月26日

朝からマリーナシティへ行って色々の御ちそうを食べました。

和ちゃんとミドリさん(和子の姑)が泊っているので(月に一度のみどりさんとの泊まり)むかえに行ってのことです。

私は何も家の為世の為にとしないのに御ちそうをよばれたりお世話にばかりなっています。
相すまん事です。
もったいない事です。

仕事はできないのでせめて念仏唱えてませう。

マリーナシティーで窓から海の景色を眺めたのに忘れてしまいました。

近頃はよく忘れて何でもかんでもみな忘れてしまいます。

平成22年7月17日

昨夜は一睡も出来なかった。
別に心配事も何事もないのに困ったものです。
でも今朝は早く起きて普通に用事をしています。

私も近頃大分丈夫になったのでせうね。
朝から食欲もあり元気にしています。

今果実はとてもおいしいです。

朝からモモ、バナナ小、サクランボ、サンタロモモ等々を食べました。
サンタロモモは自分でむいて食べました。

手も足も自由に動いてありがたいです。

天気が良いからこれから弥生さんとこへ遊びに行って来ます。
弥生さんとは仏法のおつれです。
別に話はしないけど一所にいると楽しいです。

今日も良き日に恵まれて有難う御座居ます。

平成22年7月16日

東横インに泊まった。

遠くに和歌山城がライトアップされてよく見えてうれしかった。
私はあのお城の下生まれ育ったので見るとなつかしく思ひます。

あの辺には小学時代のお友達も多勢いたのですが近頃唯一人さえもお逢ひしません。
考えたら私も95才ですから、もう此の世に居る人は極少なくなってゐるのですね。

六年生の時の先生は岡本先生で男子、年のとった先生でした。
私は走りが早かったので他校と争った時番町の赤鬼と云って恐れられた事等なつかしく思ひ出されます。

和ちゃんがこの景色が好きだったらミドリさんと別々の日に連れてきてあげると云ってくれました。

このホテルの社長さんは
生きとし生けるもの皆ともどもに大きな慈悲につヽまれて幸者になって下さいと
念じながら経営してくれてゐる云ふ話です。
尊いことだと思ひます。

平成22年7月15日

今日も雨だから近所遊びも出来ないかもしれません。

西原さんは昔からの知合ひなので行ったらねころんで(寝ころんで)ゆっくり遊ばせてもらいます。
おかゆをつくったのを食べさせてくれることもあります。

およめさんがやさしいから安一さんは自由人だったので房ちゃんも苦労したと思ひますが、
今は安一さんの看病に専念しています。

明治さん(亡夫)はやさしかったので私は幸せをしました。

弥生さんとこへも遊びに行きます。
弥生さんとは無二の法友です。
他の言をまじえることなく佛法を楽しみます。
数時同一所に居てもたのしいです。

ミドリさん(和子の姑)が昨晩ころんだので医者へ行くと云ってます。
台所のたヽみの上ですぐに体に大きいシップをしたと云ってました。

和子は何度もミドリさんの部屋を見まわりに行きました。
紘さんを三才の時から育ててくれた大切な人だと和子が云ってます。
お菓子でも何でも一番上等ものはミドリさんに差し上げます。
わたしもそれはよいと思ひます。
ミドリさんは我家でもっとも大切な人だと云ってます。
私もそう思ひます。

平成22年7月14日  ドシャブリ雨

水なすとキュウリの漬物はとてもおいしいです。

今年は金山寺みそをつける様和子に云ってます。
金山寺みそはウリとショウガやほんのすこしのしその葉等も入れるさうです。
家でつけた金山寺みそはおいしいからうれしいです。
敬ちゃん(孫の嫁)や妙子(孫)や妙子(孫)のお友達も来てつくるさうですから
何度も何度もコージをわかすのだと思ひます。

和子の元気のうちに皆が習ったら良いと思ひます。

コージをわかす時和子はアマ酒もつくってくれるのです。
アマ酒のコージはもち米でつくると云ってます。
アマ酒は少しづゝ小わけして冷凍して来客にぬくめて(温めて)だしている様です。

和子はお沢さま(姑)ににたのだと思ひます。
だまってよく働きます。

金山寺みそは平安時代にもあったらしい。
時の支配者、西園寺入道時頼が知人とみそで酒をくみかわしたと云ふ話があります。
日本の古来より傳しょうされている食文化だから後生に傳へる事が出来たら良いと思ひます。

私は自分ではあまりつくらなかったが和子を使ってつくったので和子はよく知ってます。

近年はなれずしは外部より買ってきますがあれも家でつくったら良いがなあと思ひます。
和子は以前に比べて料理は手ぬきになって来ている様です。
それでも毎日ごちそうです。

なれずし家でつくってほしいと思ひます。
なれずし食べたい食べたい食べたい食べたい

なれずしの歴史はふるいです。
平家の落武者が山中にのがれて行く時背中に背おってもって行ったのが
なれずしになったのだときいています。

和子の親しい友達で栗須和夫さんと云ふ人は平家の末裔だそうです。
紀伊半島の中ほどの人せき未踏のところの人です。
和子はそこの土地へ遊びに行ってきたそうです。

栗須さんは念仏を百まんべん以上も書いて正教寺におさめています。
栗須さんと和子はお互いにこれと云ふ話も無いが気が合うのか、なかが良い様です。
栗須さんは干し大根をつくって送ってきてくれます。

干し大根をたく時はホシエビとコブとカツオブシを入れてたいてくれます。
あっさりうす味にたいてくれます。

今日は思はず沢山書きました。
雨でタイクツしたので書きました。

平成22年7月13日

和ちゃんとお風呂に入りながら朝、話をした事もう忘れないうちに先に書きます。

昨晩は樹人(ひ孫)達も加わって大勢で食事に行きました。

ところが、室の様子や皆の座った順ばんはわかるのですが何を食べたかは忘れてしまいました。
中華料理ではないと思いますが箸を使ったからフランス料理でも無いと思ひます。
けれど日本料理でも無いと思ひます。
魚でなくて肉であったと思ひます。
その肉はとてもやわらかかった様に思ひます。
和ちゃんはとうとう教へてくれませんでした。

女学校の時の話もしました。
女学校ではフランス料理や日本の料理ちゃんと食べる練習をしてくれました。
父母に学校へ行かせてもらったので一生不自由をすること無かった。

有り難う御座居ました。

和子は樹人と賢太郎が二年位になったら二人を連れてテーブルマナーにつれて行くと云ってました。
そのときは私も行きます。
嬉しいです。

和子も子供たちが中学生になった位でテーブルマナーにいったそうです。

今トマトを食べました。
書くこと無いので今考えてます。

今日は雨が降ってるので和ちゃんは草とりに行かずに台所仕事をしてます。
モモとブドーをお皿にのせて朝食の用意をしています。
みどりさんが起きてきたら二人に呉れると思ひます。

もうすぐ六時です。

この頃ツバメが来なくなったと和ちゃんが云ってます。

今日は台所にいて楽しのでもっと書きたいけど頭をフッても出て来ません。

たゝたいてみてもカラカラと云うだけで

平成22年6月29日

先のページを読むと6月23日でした。
こんなに日々が過ぎるのに驚きました。
おそらく和子は毎日日記を書いたらと言ってくれても私が書くのが嫌だったのでしょう。
先のページを読むと楽しいからまた続けて書きたいと思っています。

前のページを読んでもまったく記憶に残っていません。
衰えたものです。
こんな頼りない頭を頼りにして
我こそは我こそはと言ってきたのだと思います。
もう書くの嫌になった。

もうすぐ朝の6時になります。
お天気だけど和ちゃんは草取りをせずに台所で仕事をしています。
私は仕事をするのキライ。

平成22年6月23日

先日奈良へ行って三笠の山を眺めたとき、阿倍野中麻呂が
中国に留学したとき中国の政府に当用されて、日本に帰れなくなったとき
歌った歌

あおによし奈良の都に咲く花の匂うが如く今盛りなり

と望郷の念の名歌を残したので千年の後までも歌われる。

私は何の教養も無いので残すこととてはありませんが、
この大切な仏様の教えをこの世でご縁を頂いた人々に
伝わって共々にいつまでもお念仏の中で暮らしたい。

一首詠みます。 本当のところ和ちゃんが一首作れ作れと言いました。

94この年迎えてあな嬉し親のうてなで暮らす日々

ただいまは午前6時ですが8時ごろには紘さんが起きてくると思います。
米利さん(妹)とこへ連れて行ってくれるらしいので、待ち望んだうれしい日です。

昨日のことを思い出したので書きます。
若い人の月曜会でした。 何のご馳走か忘れたけれどテーブルいっぱいのご馳走
でした。

平成22年6月20日

4時半ごろに起きて一回目の食事をしました。
今日も元気にご飯を頂いてうれしいです。

和ちゃんは朝の洗濯や支度で忙しそうにしています。

久しぶりに日記を書けと言います。
けれど今日は書くことありません。

無為徒食の身が三度の食事を頂きお風呂も毎日入って、ただそれだけのことです。
その上息をしてこの世において頂いているだけのことです。
生きているだけで家族に喜んでもらっています。

これから2回目の朝のご馳走をよばれます。
ご馳走がいっぱい並びました。

平成22年6月16日

今日は紘さんの運転で自動車で奈良へ行ってきました。
みどりさんが奈良を知らないと残念そうに言ってたので(私も)一緒に連れて行ってくれました。

みどりさんはおじいさんはちっともよそへ連れて行ってくれなんだので、
紘さんが連れて行ってくれたのでうれしいと言ってました。

大仏さんを拝んだときは
聖武天皇様が大きなお堂を建ててくれた大仏様を拝ませていただいて、
多くの人が拝ませていただいて大きな功徳をつまれた人だと言ってました。

和子と二人手を取り合って拝ませていただきました。

中井かや子さんは施設に行ったのでさびしいが、
かや子さんは何処にいても念仏もうしていると幸せものだと言っていたので、
私もうれしく思いました。

今日奈良へ行って鹿がたくさんいて驚きました。
奈良で栄えた人も皆死んでいったね。
私はただいま念仏させていただいて幸せ者だと思いました。

平成22年6月14日

和子はほの暗いうちから草取りをしていたので、私も早く起きました。

朝食はうんとご馳走があったような気がします。
くだものも種々あったです。

みどりさんは朝起きて一番にお饅頭と果物を食べています。

平成22年6月13日

この間菖蒲園へ行ってきました。
一面の菖蒲がとてもきれいでした。
個人の経営でした。
白や紫の花が植木鉢で見事なものでした。
何千鉢もの植木をよう個人でできたものだと思いました。

それから和医大の13階の食堂で雄さんと和ちゃんとみどりさんと私とで食事をしました。
13階から和歌浦湾を望んで見事なものでした。
前にもこの景色を見たことが
あったようですが、いつだったか思い出せません。

今日は雨の日曜日です。

雨が降っているので何処へも連れて行ってくれません。

みどりさんは今北海道から送ってくれた昆布を切ってくれています。
和ちゃんは料理に昆布をたくさん使うのでおいしいです。

和ちゃんはいつもみどりさんもおばあちゃんも尊い人生を生きてくれるなぁ
と言ってくれます。
我が家は毎日居心地が良いです。
和ちゃんが庭に鉄砲ゆりがいっぱい咲いているので、書いといてと言うので書きます。

平成22年6月8日

今日のおやつは見事な枇杷がテーブルの上に乗っているので、
多分今日のおやつは枇杷だろうと思う。

目の前で和子は昨日のお刺身がたくさん余ったので、油で揚げています。
今晩の中華料理に使うのだろうと思います。
キクラゲも今水に戻しているところです。

平成22年6月7日

今日は月曜会です。
皆で集まって楽しく話し合いしました。
少しも記憶に無いのですが、この会の人々とおると楽しいです。
よくよくの仏縁で集まった仲間だと思います。

今日は食事は出なくておやつくらい出たのだと思いますが、まったく記憶にありません。
つい2~3時間前のことなのに何も覚えてないので、ガッカリしていると
以前のことは記憶が確かだと和ちゃんが言ってくれます。

まだ何か書こうと思うけど何も分からぬので、これでおいておきます。

平成22年6月6日

和子の友達の熊井正夫様のお葬式に行ってきました。
私も一緒に行きました。
無口のようでしたが、二人はとても仲がよさそうでした。
尊敬しているようでした。

仕事は何をしていた人か知りませんが、大変大勢なお参りでした。
大切な人に分かれてゆくのは寂しいだろうなぁと思って見ていました。
まだ73歳だと言ってました。

熊井さんも暖かい家族に恵まれて、幸せであっただろうと和子が言ってました。

今日は疲れているから もうおしまい。

平成22年6月3日

今日は目が痛い。

白内障の手術をするのに、まつげを切ったからだと言ってます。
紘さん(娘婿)が目医者へ連れて行ってくれると言ってます。

さっき冷蔵庫を空けたら小さな西瓜が入っていたので、
今日のおやつはは西瓜かな?っと思ったらやはりそうです。

目の手術怖いよう と言ったら、「もうすんだのや」と言いました。

ヤレヤレ

今日は何してあそぼかな。

平成22年6月1日

衣替えの季節になりました。
ほとんど毎回のように明日の目覚めがあるかないか分からぬと思いながら、
一日一日を過ごしておりますが、
冬も去り、春も去り、初夏のころとなりました。

近頃はドライブしても山の上から眺めても、きれいな緑一色です。
その緑はピカピカと輝いています。
裕子は幸せ者の94歳になりました。
考えてみると私は能力もないのに、無類の気ままもので
他人に対してなら、絶対に許さない人生を
平気の平左で我が物顔に今生において頂いたことよ、
とあきれてしまいます。

今にしてようやく初めて自分の姿を見るような気がします。
まだまだ恥ずかしいと思うところまでゆきません。

お澤さん(姑)に始まった明治様(亡夫)、和ちゃん、
大きな心の流れでイライラの私をものともしなかったのでしょう。

私はお澤様が大嫌いでした。
お澤様の悪口を手当たり次第言いふらしてきました。
今にしてようやく、気がつきましたが、
お澤様のお心も、私の荒れ狂った心も、み仏様からの頂き物でした。

ありがとうございました。 合掌

この日記を読んだ和ちゃんが、 「お澤さんも裕子ちゃんも同じほど尊いお方よ」 と言ってます。
和ちゃんは 「こんな家に生きさせていただいてありがたい」 と言ってます。

今思い出したけど紘さんも昔は無茶苦茶に気ままな人で、
私は腹を立てておじいさんによく怒りました。

おじいさんは「和子の歩んでいく人生の模様だ」 と言いました。
和子は怒ってはなかったと思います。
おじいさんは 「楽しんで見てたら良い」 と言ってくれました。
おじいさんは和ちゃんのことを 「いじらしい いじらしい」 とよく言ってました。
近頃の紘さんは何処を探しても無いようなかわいらしい立派なお坊さんです。
紘さんにも 合掌

平成22年5月31日

今、栂野さん(ヘルパーさん)がお越しになり掃除をしてくれています。

私は栂野さんは大好きです。

昨日行ってきた京都の話を色々聞いてもらいました。
真ちゃん(孫の婿)や妙子(孫)が
私が寝て京都まで行けるように、車の中をしつらえてきましたので、らくらく京都にいけました。
行きも帰りもぐっすり眠ってましたので疲れてません。
西本願寺にもおまいりしてきました。
嵐山でご馳走をたべました。
昨日のごちそうや色々の費用全部真ちゃんが負担してくれたと
言ってました。

平成22年5月30日

今日は妙子(孫)たちが京都へ行くので一緒に連れて行ってあげると言われたのですが、
少し疲れているように思われたので一度はあきらめたのですが、
京都なら行きたい気分でどうしようかと迷っています。

しかし樹人(ひ孫)が行くというので樹人に会いたいのでどうしようかな?
樹人に会いたいなー。

行きましょう  行きましょう

和ちゃんは健康保険証も持っていってくれるそうです。

平成22年5月29日

今日は和ちゃんにイヤコトを言われたので、仕返しをしてやろうと思っています。

紘さんと和子はこれからコンサートに出かけると言ってます。
それで留守番をしてほしいと言います。
会場ではお便所も遠いし私の耳も少し遠いので、
聞こえにくいから留守番をしてほしいと言います。

私は留守番なんて いやいやいや。

みどりさんもデイケアに行っていないのです。
一人ぼっちは いやいやいや。
今夜は孫やひ孫全員集まってにぎやかになると言いますが、 いやいやいや。
これを書いてしもたらクツをはいて門の外で待っていることにします。

マイッタか

さてさて忙しいことになった。

平成22年5月28日

朝食の前後から急に両方の目が痛くなり、手で押さえていました。
どうしたのでしょうね。
食事も中断して和ちゃんに目薬をさしてもらいました。

我が家の和ちゃんの見立てでは、
手術のときまつげを切ったからそれが目に当たって
痛いのであろうと言いましたが、
私はおなかの中で迷医が何を言うか
と思っていました。
しばらくすると痛みはなくなって、
また日記を書く元気が出ました。

迷医殿  アッカンベー

ややこしい人に守られて暮らすこの心細さ     ー おしまい -

なんか書いてほしいと和ちゃんは言うけれど、頭をぽんぽんたたいてみても
今日の分はもう終わり。

京都へ生きたいなぁ。
(和子よお前は私の家来だ。早く段取りせぇ。)
和高女を卒業してから二校へ通ったので京都は懐かしい土地です。
今までは京都はスキスキと思っていましたがこれも皆親のおかげでした。
学校へも長く行かせてくれてありがとう。
京都で1校を卒業したとき父が迎えにきて「裕子よ仏教学院へ行くか」
と言ったので、まだもう少し京都で遊べると思ったくらいのことでした。
御仏様や親の大きなお計らいの内であったのだと思います。
今、ようやく思います。
おとうさんありがとう。
合掌

平成22年5月27日

庭一面にあった春の花を抜き取り、
スッキリしたところ紘さんがまた夏の花を植えてくれるのでしょうね。
いつも庭の花を眺めて楽しいです。

平成22年5月26日

好子(孫)が家中をきっちり片つけてくれたので、
和子がうれしいと言って喜んでいます。

みどりさん(娘の姑)が居ないので どうしたの? と聞いたら
私の目の手術の間、かまやま苑で泊まってもらっていると聞きました。

私が手術をしたので、みどりさんに不自由をおかけしたと思っています。
みどりさんは耳が遠いので、私は話をしたことはありません。
いつもやさしいしぐさをしてくれます。

食卓ではいつも隣通しに並んでいます。
かまやま苑でもお友達ができていると思いますが、
早く帰ってきてくれると良いがなぁと思います。

西原さんがお野菜をあげると言って来てくれたので、
和子は頂きに行ってます。
ご近所の皆さんから良くしていただくので
和子はありがたいと言ってます。

平成22年5月25日

今日は若いお母さん達が集まって若月会がありました。

私も出席したのですが細かいことは忘れてしまいました。
初めてからちょうど10年目だそうです。
和子は張り切ってご馳走を作っていました。

もうご馳走の内容は忘れました。

けれどいつも和やかなよい集まりです。
和子は若月会の人々はとてもかわいいと言ってました。

今日はえんどう豆をたくさん頂いたので
私は一生懸命にむきました。

94歳にもなってまだお豆さんでもむけて少しでも間に合ってうれしいです。

お父さんお母さん私をこのように生んでくれてありがとうございました。
尊いおみのりの中を生きさせて頂いてます。
ありがとうございました。

もうこれで書くことないと言ったら、かずちゃんはかわいらしいと書いといてと言いました。

紘さんには悪いけどお世辞にもベッピンサンとは言えません。
しかし人品はあまり悪くないと思います。
私にとっては便利なコマヅカイです。
小間使いの位置に居るとは立派な心がけだと思います。
私はあの立場になりたくない。

つい先刻、あなたとは永の付き合いだったけどもうしばらくやねと言ったら
えらい剣幕で そんなこと言うていらん! と言いました。
倶会一処(仏語)じゃないかと言ったら、
このまま一緒に長いこと居りたいと言って半泣きでした。

今日も合唱。

平成22年5月24日

朝からひどい雨です。
庭の花は盛りを過ぎた残骸ばかり立っています。

鏡に映った私の顔、
その様変わりの様子は鏡に映った今日の私のようです。

私もいよいよこの人生に別れを告げるのも近いのかなとも思われます。
そうとしたら今のひと時を有意義に使わねばもったいないとおもいます。

もう生産的な生活は何もできませんが健康からも見放されて老衰の今日ですのに私は幸せ物だと思います。
和子はいつも口癖のように
おばあさんの元気なうちにそのままの様子で皆と一緒にお茶を飲みたいなぁと言います

和子も私もお客が大好きです。
和子はどなたでも結構ですお茶を飲みに来てくださいと書いといてと言います。

和子は今、私の前で銀杏ご飯をするのでしょう銀杏の皮をむいています。
人の気配がするのか池の鯉が集まってきます。
餌をあげてと和子が言います。
お阿弥陀様のウテナで鯉も私も幸せです。
和ちゃんも幸せだろうと思います。
この人はあまりもの言わんけどいつもニコニコしています。

合掌

平成22年5月23日

白内障の手術をして家に帰り、鏡を見て自分の顔を見てびっくりしました。

鏡の中には百ほどに見える老婆が立っていて、驚きました。
思わず あなたどなた と言ってしまいました。
鏡の中の老婆も口をパクパクあけてあなたどなた と言いました。

自分のほっぺたをつねってみたら鏡の中の老婆もほっぺたをつねっていました。
これは私の顔なんだなぁとご挨拶しました。

病院というところは恐ろしいところで、10日ほどの間にこんな顔にしてしまいます。
(注 手術をしてしわまでよく見えるようになったようです)

今浦島のような心地で暮らしています。
今日は日曜日なのでお母さんが子供一人連れて参られました。
和ちゃんが子供向けの法話をしてました。(注 日曜学校:毎月第4日曜日朝開催)

今は教育熱心の時代ですが
親は子供の宗教教育ために来られたのでしょう。
(注 仏様に手を合わせる子になって欲しいとの願いでお越しになっています。)

今紘さんが起きてきておばあさんあんまりたくさん書かんときなと言ってくれました。
今日はまだまだ元気なのでまだまだ書きたいのですが、老いては子に従えといいますから

ハイ。

ありがとうございます。

平成22年5月21日

和子は今日帰るらしい様子です。
私もそのつもりしていますが、
和子が云うのには、今までの期間はここになじむかどうか試す期間で、
合格したからここの住人になったと云います。

私は絶対に絶対にアッカンベーです。
皆さん親切で景色も上等で最高の待遇ですが、百枚の舌を出して、アッカンベーといいます。

それにしても帰る家があると云うのは大安心なものです。
弥陀と私は松葉の中よ 何処に落ちても二人ずれ
どなたの歌か忘れましたが、
阿弥陀様にまもられ、家族にまもられ、うたがう余地の無いとゆうことは幸せなことです。

合掌

平成22年5月20日

両目を白内障の手術をして下さったそうです。

まだ充分に見えてるように思いませんが視力はあがったそうです。
文字を書いてる手元は良く見えてます。
先ほどらい寝床にいて感激したことを書きます。
明治さん(夫)の親の、元治郎さんは妹二人の兄妹だったそうです。

妹さん夫婦がお寺に入るとき、その当時としては、大寺であったので、
大金が必要だったので、その大金を喜んで出したそうです。

近頃になって、それから八十年もたって、
そのお寺の方々が、
「唯の一度も恩きせがましいことをそのそぶりすら、このながい年月だれ一人としてしなかった。」
と云ってその事のお礼として、
以後おつとめをしたいと云って先祖代々の法名を我が家へ尋ねてくれました。

私も明治さんと結婚して以来一度もその話をきいた事はなかったけれど、
つとむさん(明治の弟)から、近年ちょっと聞きました。
つとむさんも恩きせがましい話で無かったので、記憶にさえはっきりと残らないことでした。

今考えて見ますとお澤様は(姑)三十代初めの頃に元次郎さんを盲腸手術で亡くしたそうです。
その後女手一人で二人の男の子を大学を出しています。
お澤様の実家は相当豊かな家だったようですから、
実家からの支援があったかもしれませんが
私の知るかぎり、元次郎治郎様の兄弟の家とは終生仲良く付き合っていました。

お澤様の人柄をまざまざと今思い起こすことです。
又妹様のご一族も、今更昔のことを云って
ご先祖に対してお礼を云ってくださるとはその事にも驚いています。
いずれもいずれもこうは生きられないものと思われます。

合掌

平成22年5月19日

午後一時から右眼の手術をします。
左眼はすでに手術はすんだと云うのですが、手術のことは少しも覚えていません。
左眼は前からこのていど見えていた様な気がします。

せっかく骨折ってくれた先生にお礼の言い様もありません」。
手術はいやだなあ。しようが無い、なりゆきにまかさば、マナイタのコイ。
手術は怖いコワイ コワイ

昼ごはんぬきらしいのでこれもキライ

平成22年5月18日

和歌浦湾から海南に至る一望のとこに座っています。
広々とした和歌浦湾が遠くまで見えます。
眼下には文教女学校(現明和中学校)が見えます。
左の方には紀三井寺(西国三十三番の二番札所、桜の名所)が見えます。

親鸞聖人はこの辺をお歩きになられて、
一人居らば二人と思え、二人居らば三人と思え、その一人は親鸞なりと、おおせられた。

正面は藤白の里だそうです。
私の大おじいちゃんは四国からまねかれて、この藤白の里まいり、
和歌山城のおとの様につかえたそうです。

学徳の優れた人であったので勉強を教える為によばれたそうです。
藤白では和歌山城に遠すぎるので、冬野の寺に(正教寺)に変ったそうです。

冬野の寺は歴史のある立派な寺ですが、
先代の高岡と云う人がバクチをして寺物一切売り払って、どこかへ行ったそうです。

収入の無い冬野の寺で、子供たちに学問をさせたそうです。
和歌山には学校がないから、京都や東京で最高の教育を受けたそうです。
当時としてはめずらしかったのでしょう。
色々な人を輩出したそうです。

世代が下って、私共は別に変った色合いはありません。

私としてはお念仏様を、後世の人に伝えたいと思いましたが、
力及ばず申しわけありませんでした。
尊い流れをくみ、今幸せな一生をすごしています。

平成22年5月17日

いよいよ本日左眼の(白内障)手術の日です。

別に思うことはありません。
明治(亡夫)のお父さんはマスイの失敗があったと聞きましたが、
百年も前のことですから今は関係ないでしょう。

病院のかたがたに良くして頂いています。
同室のかたがたにも、とりわけ家族には筆舌につくせぬご恩を頂いています。
県立和医大だからお逢いした事のない多くの人の納税のご恩を受けていると思います。

私は何も出来ません。ただ、お念仏するのみです。

孫たちは皆やさしいのでうれしい。
もう目は見えなくなってきました、九時半から手術です。
合掌

平成22年5月16日午後病院に入って書く

和歌ノ浦葦辺をさしてたず鳴き渡る
万葉の古人もこの景色を見たのでしょうね。
唯今夕刻の六時、和医大の十三階より和歌浦湾を眺める。

親鸞聖人もこの景色を眺められたであろう。
和歌ノ浦の波のよせかけ、よせかけ返へらんに似たり、
我世にしげく返り来る、み仏の慈悲つたたがまなし
ああ、親鸞聖人はここまでお越し下さって、念仏をおひろめ下さったのかと思うと感無量。

次第にくらくなって来て、船の明かりがみえてきました。

平成22年5月16日朝

五月十六日(朝)
朝目をさましあたりを見渡せば、まだこの世にいた。

94さ才にもなるといつあの世へ引越しをするかわからない。
あの世とはどんなとこと問えばわからない、わからない。
世界が変わってしまうのだから、わからないのが当たり前。

しかし、私たちは迷いの世界、六道輪廻しているのだからいずれにせよ迷界にちがいない。
けれど、私はちがうちがう、私はかねてより六道輪廻を断ち切って悟りの世界に行く道を教わった。
そうだそうだ、私はもし輪廻することなく弥陀の十八願にすくわれて、
真直に悟りの世界に入れることを教わったのだ。
他力本願により私はもし悟りに世界に入ったのだ。
もう迷うことはない、うれしいなあ。

私の知人も友達も皆迷っている。早くこの本願はしらせなくては。
いそげいそげ
うれしいなあ、うれしいなあ、うれしいなあ

平成22年5月14日

今日ははっきり見えません。
ここに来て(和医大に入院)から、血圧が200以上に上がったのでそのせいかも知れません。
ここの朝食は、私の好みに合わんので和ちゃんが十三階のレストランへ連れて行ってくれることもあります。
海に面したとてもきれいなレストランで海を見て食べると楽しいです。お茶だけでも飲みにいけます。

今日にして思えば、無為徒食の身がこんなに幸せにおいて頂いて有り難いです。
和ちゃんは無為徒食と云ってイランといいます。
今日までお育て頂いた有り難い、お母さんだと言ってくれます。
お母さんの一生は尊い一生であった。
今後ともよろしくと言ってくれます。
もうちょっと育ちたいからオッパイ頂戴といいます。
アホカ!70歳ババの赤ん坊なんか知らん。
それにつけても幸せな毎日です。

平成22年5月13日 午前11時半

まだ頭の中がモヤモヤしている。

和歌山医大病院の十階より見た景色は、海の向こうに雑賀崎が見えて、左に紀三井寺が見える広々とした景色です。
新築の十三階建ての十階よりのながめはなんとも云えぬ広々としたながめです。
朝の眠気がまださめません。
ここからのながめは、和歌浦湾を、眼下にマリーナシテイから、藤白山を一望に、左手には紀三井寺が見えます。
眼下には、由良の文(ふみ)ちゃんがなくなったとき、その死を悼んで建てた文教女学校も見えます。
文ちゃんは私より五歳ほど上のいとこです。
叔父は教育に熱心だったのか、和歌山の工業高等校も建てたそうです。
それらは昔のことで懐かしい人々もはやなくなってしまいました。(白内障の手術のため和医大十階に入院)

平成22年5月12日 未明

(遠方に住む娘へ)
お元気ですか。
和子から聞いてます。
あなたの家庭の御様子を、あなたと子家族幸せに幸せに暮らしているらしいですね。
それを聞いてうれしいです。
ご主人の辛抱強い立派な人格を拝んで暮らしてください。
ご主人様にまもられたこの長い月日を喜んでくださいね。
{巧言令色、鮮し仁}(すくなしじん)
これはお父さんの好きな言葉です。

紘さんも和紀さんも、ほんとに良い人柄だといって喜んでました。

平成22年5月9日

今日は母の日です。

浪ちゃん(紘の妹、茨城県)から、美登里さんと私に、それぞれ別の花束を送ってくれました。
大勢の人に見てもらいたかったので、裏の入り口に飾りました。

今日は、うれしさのあまり書きます。
敬ちゃん(孫の嫁)仏法の事を色々尋ねてくれました。
それはとても熱心な様子でした。
宏典(孫)は尊い心ばえに育ったおじょうさんと結婚したなあと、思いました。
あそこの子孫は手を合わす子供に育つのだと思います。

平成22年5月8日

朝十時に家を出て、山道を通って朝日の喫茶店まで行きました。
途中かや子さん(檀家さん)や延ちゃん(檀家さん)の家の前を通って、なつかしくながめながら歩きました。
朝日のお池の上を歩きました。子供たちが多数遊びに来てました。

メルヘン(喫茶店)に着いたらちょうど家を出て五十五分たっていました。
体中汗びっしょりになってたので和ちゃんがハダカにして体中吹いてくれました。
一時間ゆっくりしてお茶もご馳走も食べました。

近くの松尾さん(知人)とこへも寄りました。
松尾さんは桐蔭を出ているので、私の後輩に当たります。
桐蔭の前身は、和高女で私の後輩に当たります。
特別の話はしないけどお念仏のお同行で懐かしいです。
松尾さんの子供さんが家まで送ってくれました。
これから寝ます。

忘れてたけど名古屋へ(津島の天王川公園)藤の花を見に行きました。
お伊勢さんにもおまいりして、日本皇室の大先祖の皇大神宮におまいりして、名古屋へ(ナバナの里)いってきました。

和ちゃんが言ってくれたので思いだして書きます。
これだけ何でも忘れてしまうのに、お念仏はつねに私のこの口より出てくれます。有り難いことです。
忘れても忘れぬ親がある故に、忘れる者を、その身そのまま。ああ有り難い、有り難い

伊勢へは厚子も(次女)も美登里さん(紘の母、90歳)も一緒に行きました。
紘さんと好子(孫)の運転です。
和紀さん(厚子の夫)有難うございます。
美登里さん、紘さんのような立派な子供を育ててくれて有難うございました。

今日もうれしいうれしい一日です。    合掌
こう書いても手許はっきり見えてません。
ありがたい ありがたい

平成22年5月4日

今朝食をよばれました。
色々あったがスカンポ(イタドリ、ゴンパチ)はこの季節だけのものです。
子供の頃、生で食べたすっぱかったが、和ちゃん(娘)が料理して出してくれたのでおいしかった。
きょうはこれまで!!

平成22年5月3日

晴れとは云うものの左眼はうっすらとキリがかかったようです。
左側で見ると全体がうっすらと白くかすんで見える。
九十四歳ですがやはりもう少ししばらく見えないと不自由です。白内障だそうです。

平成22年5月1日

この頃は記憶することが出来ないので、今テーブルのまえにすわったが、昨日あった事等すっかり忘れて書くことが出来ない。字を習わせて頂いたのでこの様に書きとめておくことも出来、有難いことです。
宏典(孫)の勤めさせてもらっている島精機の社長さんがテレビにでて放送されたのを書きました。
会社の中の立派な様子も見させてもらいましたが、
社長さんはギブアンドギブンの精神が会社の精神ですと云っておられました。
テイクアンドテイクこそが私たちの心ですが、何と御仏様のようなお方だと思いました。
宏典が立派な会社へ勤めさせていただいて有り難いと思います。

和ちゃん(娘)と二人テレビを見ながら有り難いと言っていました。
和ちゃんがこの心が社員に伝わると、家庭生活、社会全体も立派に成長するがなあと言ってました。
宏典は会社にも家族にも恵まれて幸せです。

平成22年4月21日

21日という日は私の好きな日です。
私は10月21日に生まれました。
文字を知っているという事は有り難い事です。
遠方の人とも通信が出来ます。
大切な事は書き留めて置けます。
私も以前書きましたが、今は何処へ置いたか忘れてしまいました。
何を書いたか忘れてしまいましたが、私が死んだら探し出して読んでくれると思います。
今の気持ちでは書きおきたい事はありません。
充分満足しています。
朝食後ケーキを頂き、コーヒーを頂いているところです。
和子(娘)は今日、つたえちゃんとこへ遊びに行くといってるので私は一人ぼっちかなぁと思っています。
つたえちゃんとこだったら、私も知っている人だから一緒について行きたいなぁ。
本渡のつたえちゃんの家までだったら大丈夫だと思います。
行きたいなぁ、行きたいなぁ、行きたいなぁ。
毛呂さんか前田さんとこへ行くのだったら連れて行って貰えるのになぁ。

平成22年4月20日

昨日は高田米利さん(妹)のとこへ行ってきました。
米利さんが大きな絵の大作を見せてもらいました。
あの人は才能があるので何をしても大したものです。
和高女でもずば抜けての一番で ―(以降原文読み取れない。)―

紘さん(娘婿)が精込めて作った大きな花の鉢植えも一杯持って行って玄関に飾ってあげました。
私や和子(娘)と三人で話をしている間、紘さんが寝転んで居る事が多いです。
うちは家内中仲が良いので何時も空気が良いです。
和ちゃんは何時も如来大悲のご恩でこの世に置いて頂いているのだと言います。
米利さんや信ちゃん(妹)に和子のような女の子があったら良かったのにと思います。
和子がみどりさん(和子の姑)にする優しさにはあきれ返ります。
そう言うと和子はお念仏様のおかげよと言うます。
今日ははっきりと目が見えぬのでこれでおいておきます。
私は94歳になっているのに和ちゃんはまだまだ長生きしてほしいと言うます。
不法懈怠の私ですのに、この私の口より出る念仏が恋しいと言ってくれます。
はずかし、はずかし、はずかし。

平成22年4月19日

今日は高田さん(妹)へお参りに行く日で嬉しいです。
楽しみな事は毎日沢山あると思いますが、特に姉妹の家へ行くのは嬉しい事です。
紘さん(娘婿)が車を出して大阪まで運んでくれるので私も行けて嬉しいです。
六人も兄弟がいたが念仏の話をする人はいませんが、米利さん(妹)は人当たりが良いので、とても優しくしてくれて嬉しいです。
米利さんは私より15歳も若いが身体が弱いから何時も心配しています。
米利さんは優しい穂積ちゃん一人子供がいるので嬉しいです。
穂積ちゃんは殊の外太っているのでどうか長生きしてほしいと思います。

平成22年4月18日

今日5,6人のお人が見えて仏様のお話をし、楽しい一時を過ごしました。
み仏様を讃談しながら楽しい集いでした。
和子(娘)のお友達であろうと思いますがとても楽しかったです。
和子はおばあさん長生きしてよ、仏様から預かった大きな役割がまだ残ってあるのやで、と言いました。
如来大悲の恩徳は身を粉にしても報づべし、師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし。
私のほうからは何も出来ませんが、尋ねて来てくれた讃談する、これがまたお役に立つとは有難い事です。
今日はまだまだ書きたいのですが手が痛いのでこれでやめます。
お客の中にお医者さんもいたらしく、和子はみどりさん(娘婿の母)や私のことをさかんに相談していました。
私の事をなかなか良い健康状態だと言ってました。
弥陀と私は松葉の仲よ、何処に落ちても二人連れ。
ごもったいない、ごもったいない。

平成22年4月5日

月曜会で松尾さん、西川さん、前田さん達が、千代さん達が来てくれて楽しく過ごしました。
子供達も大勢来てくれてました。
和子さん(娘)は嬉しそうに皆に話をしてくれていました。
私も同席してました。
あまり聞こえないけれどとても楽しかった。
和子の顔は何時ものお月さんの様な顔が格別嬉しそうでした。
和ちゃんはここでお味噌をついているので半年したら美味しい味噌が出来るでしょう。
いい麹が出来たと言っています。
嬉しいです。
今日は手が痛いのでこれまで。

平成22年4月3日

今日は子供文庫の花祭りだそうです。
花み堂と花は毎年毛呂さん(まゆーら文庫OBのお母さん)が
活けてくれていると思います。
和子(娘)はお友達に恵まれているので、
どんな事でも一緒にやっていける様です。
利害を越えても一緒に出来る事を喜んでいます。
こんな事は世の中に無い事だと言っています。
お堂は小さい子供達が集まり、お釈迦様のお生まれになった事を皆で祝って、お菓子を食べて遊ぶと思います。
和子は大鍋に30人か40人分のカレーを昨日から炊いています。
私もきっと皆と一緒に並んでカレーをよばれると思います。
野菜カレーだと言って、
リンゴやトマトを山のように沢山昨日は剥いていました。
ちょっと沢山入れすぎではないのかと思いましたが、
年よりは口を出さずにおきました。
仏様に手を合わす子供達が年々育ってゆくので、仏様もお喜びかなぁと思いました。

平成22年4月2日 大雨

今日は又目の検査に行くのだ。
白内障はとても進んでいるそうですが、目の手術はいやです。
和ちゃん(娘)の言うのに、
何もかもおまかせと言うわりには文句が多いなぁと言いました。
信心もくそもあるものか、手術はいやぢゃ、いやぢゃ、いやぢゃ。
それにしても和子よ、お前は注射すると言っても泣くぢゃないかえ。
和ちゃんよ、貴女の事を先生と人はいうが、私は貴女を先生とは認めません。
アホヂャ、アホヂャ。
ほーどオシメを換えてあげたのに、その親に向かって何と言うこと。
許さん、許さん。
横でこの書いたものを見て言いました。
私がおかあちゃんにオシメを換えて頂いたの精々2年です。
私は5年ほど下の世話をさせてもらっていますが、それでも帳消しにはなりませんかてっと言ってました。

平成22年4月1日

唯今9時10分ですが早朝より眼科へ行ってきました。
白内障が進んでいるので、そのうち手術をしてよく見える様にしてくれるそうですが私はいやです。
怖いです。
和子(娘)と厚子(娘)との相談の結果だそうですが、いやいや。

平成22年3月31日 曇り

明4月1日は山東の願生寺の永代経です。
願生寺は(私たち兄妹が)子供の頃両親がアメリカに行っていたので、
子供(私たち)を預かってもらっていたのです。
兄と二人ヤンチャの限りつくしてました。
下の川へまくり込ん(転がり込んで)で寺の下の与市さんに助けられました。
私の年の一つ上と下とに叔母さんがいたので、おばあさんも随分気を遣ったことでしょう。
そのころの思い出をたどって見てもおばあさんにはお気の毒な事をしました。
後におばあさんが和歌山へ説教参りするのに汽車賃が無いので歩いて参ったと聞いたので、お金を上げました。
随分喜んでくれました。
寺の庭の大イチョウの木に縛り付けられた事もありました。
よっぽどヤンチャしたのでしょう。
最初蔵に入れられたが、米俵の上で小便をしたので、
大イチョウの木に変わったのでした。

平成22年3月30日

上天気です。
桜見に連れてってくれるそうです。
お弁当は買っていきます。
和ちゃん(娘)はお弁当を一杯作ってくれた人ですが、今頃は買うようになってきました。
年を取ったせいでしょうかね。
毎日のご馳走も以上よりはちょっと少ないような気がします。
和ちゃんの料理は美味しいのに食べられん様になったら困ります。

平成22年3月29日

天気が良いのでお弁当を持って山へでも登りたいなぁと思います。
お弁当は家で作ると楽しいから家で作ってほしいです。
サバ寿司もよし、玉子焼き、コンニャクの煮たの、いづれもよし。
竹の子の煮物、いづれもよし。
高野豆腐のたいたの、カマボコ、コロッケも美味しいけど面倒くさいかなぁ。
子供の頃からよくピクニックに行きました。
子供の頃はほんとに喜んで行きました。
当時ピクニックに行くのはとてもハイカラでした。
父がアメリカ帰りだからそうしたのでしょう。
その当時アメリカは日本人の憧れの的だったようです。
文化が大分違っていたのですね。
今考えると我が家全体がハイカラ被れしていた様に思えます。
父は日本の学校を出てからアメリカの学校卒、よほどアメリカが良かったので
しょうね。

平成22年3月27日

“南無阿弥陀仏”
今日もお念仏で始まる。
念仏させていただいた身をつくづく有難く思う。
和ちゃん(娘)と早朝よりお風呂に入りその話をしました。
頭も洗ってもらい、清清しい気持ちです。
朝食を済ましたところですが、紘さん(娘婿)がドライブに連れていってくれるそうです。
うれしいナ!!
外へ花見に行かなくても庭中綺麗な花いっぱいです。
うれしいなぁ~~。
楽しいなぁ~~。
何十種類もの花が咲いているがチュウリップだけでも百以上咲いています。
家の内、外花盛りです。
それでもやっぱり遠いところへ遊びに行きたいです。
桜見はまだ少し早いようですが、どこでもかまわん遠方へ遊びに連れてってくれるの、うれしいなぁ~~。
これを書いていてもはっきり見えてないので書くのも億劫になってきました。
実のところ和ちゃんにおだてられて、おばあさんはすごい、すごいと煽てに乗って書いているようなものです。
アッカンベ~~。
アホラシ。

平成22年3月26日

今日は村田先生の古典の勉強会があると聞いたので朝から楽しみにしています。
もう20年以上も続いていると思います。
和子(娘)は先生も生徒も皆お人柄が良いから続くのだと言っています。
私は縁の下の力持ちをしている和ちゃんも偉いなぁと思います。
和ちゃんの手がける事は大方何年でも続きます。
特に才覚があるとか情熱があるとは思えませんが、とにかく何でも続きます。
そこが私と和ちゃんとの違うところやと和ちゃんに言ったら、和ちゃんがお母ちゃんが居てくれているから出来るのやと言ってくれてます。
私はそんな立派な子育てをした覚えはありませんが、和ちゃんは何時もそう言ってくれます。
おそらく私のお念仏を通して仏様と直にお話をしているのだと思います。
別にこれと言って力説もせず考えている事も言いませんが、おじいさんはそこが好きだと言います。
書けているかどうかはっきり見えないのでどうか判りません。
心で感じる事や色々まだあるのですが目がみえにくくなってもう書けません。
こうして書いて楽しめるのも今暫くの間かと思います。
お父さん、お母さん裕子は幸せです。
明治さん(亡夫)今度お目に掛かった時は、あなたは毎日そちらの国から見てくれていますか。
満州で別れた時は二人の子供を抱えて厳しい時で戦後の動乱の中で私が生き抜いて、再びあなたとお目に掛るとは思っていなかったでしょう、
ご心配をお掛けしました。
裕子は今幸せに居ります。

平成22年3月25日

花の便りがきこえるのに、今年は大雨続きで今年は花見がどうなるのかなぁ。
今日は目が見えないのでこれで終わります。
ミドリさん(娘の姑)と二人でおいしい朝食をよばれました。
紘さん(娘婿)が庭に花を植えてくれるので庭中花が一杯です。

平成22年3月24日

大変な雨です。
高田さん(妹)とこへお参りの日です。
今日米利さんとこへ行くのはとても楽しみです。
紘さん(娘婿)が大阪まで車に載せて連れて行ってくれるので私は安心です。
米利さんと私は13歳年下ですが大切な妹です。
米利さんは身体が弱いので心配ですが、いつ会っても元気な様子です。
父は仏法に熱心な人でしたが六人の子供にもよく説法をしてくれましたが、思い通りにはゆかなかった様です。
私は明治さんのような立派な人と結婚したので幸せでした。
高田慎蔵さん(米利さんの亡夫)は立派な人でした。
和子(娘)とは親しい間柄でした。
よく電話をくれたと言ってます。
慎蔵さんは親切な真面目な人でした。
和子によく電話をくれたそうです。

和子が一杯おみやげを作ってくれたのでこれから出かけます。

平成22年3月23日

雨天で何処へも行けませんが、若い人の月曜会があったので楽しかった。
皆でお勤めをして後、和子(娘)が何か話をして聞いてもらってました。
私は聞き取れませんが私と同じ心で話をしているのだと思うとうれしかった。
どんな話をしているのかと聞きたいなぁと思いました。
94歳にもなると眼も耳もだめになって、あきまへんなぁ~思いました。
仏法は若いうちに聞けと聴かせてもらってましたが、ほんとに若いうちですなぁ~。
正にその通りだとつくづく思います。
「出る息、入るをまたぬ」と言われますのに大切な事を後回しにするとは、お昼の大ご馳走を食べたのにもう何を食べたか忘れてしまいました。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」食べたものも喉元過ぎると其の味も何もかも忘れてしまう事、お尻まで行ったら尚の事忘れる。
今三時のおやつをよばれています。
今日は雨で寝ているより仕様が無い。

平成22年3月20日

今日は春の彼岸です。
暑さ寒さも彼岸までというが、衣類も少し軽くなってきているようです。
和子と2、3日会わなかったので、お久しぶりと言ってくれました。
和子が居なかったのと言うから、私はどうして暮らしていたのかなぁと思います。
和子は何か書いてと言いますが今日はうるさい(しんどい)です。

平成22年3月11日

ヘルパーさんが来てくれて、方々を綺麗にしてくれました。
天気がよかったので久しぶりに外出して西原さん(檀家さん)で遊ばせてもらいました。
西原さんでどんな話をしたのかもう憶えていません。
これ程までに頭は退化して忘れっぽくなりましたが毎日幸せに過ごさせて頂いています。
お頭を叩いたらポンポン、アホアホと言っています。
94歳で老いてはアキマヘンけれど、我が家は喧嘩一つした事ありません。
聖徳太子の十七条憲法にある”和を以って尊しとなす”、正に和とは良いものですね。
和ちゃん(娘)が生まれた時、主人は”和を以って尊しとなす”と言って和子と名付け、正にその名前の通り世間様の皆さんと仲良く暮らしています。
和ちゃんも苦労な事もあったのでしょうが、そんな事も感じた事も無かったです。
本人も気がついていなかっいたのかも知れません。
ちょっとパーのところもあるのでしょうね。
桁外れのパーの時もあります。
これを書くのを横で見ていますが、横でニタニタ笑ってます。
満州で私の家に弟の勇哲が尋ねてきました。
雄弁家で面白い人でした。
満州国中全部行ってきたと皆に話しをすると言って楽しい人でした。
その勇哲さんもミンダナオで戦死してしまいました。
兄も弟も大学は法科だったので、夏休みなど父と法律の話を面白くしていました。
あんなに賑やかに話した兄弟が戦死してしまって、両親はどんなに悲しかった事でしょう。
母の晩年は可愛そうでした。
私は幸せです。
毎日楽しく暮らしています。

平成22年3月10日 夕方5時

今日も一日幸せの内に暮れました。
一日一日とお浄土のような日々を重ねさせて頂いています。
今日も日記を書く段になって文字を知り、書ける事の有難さ、これも父母のおかげ学校へやってもらえたおかげです。
父母は六人の子供を皆それぞれの学校へやって頂いたので大変だったと思います。
親はどんな気持ちでお育て下さったのかなぁ~と思います。
早く戦死した人もあり、今は三人だけ残っていますが裕子、信子、米利、女三人だけ残っています。
私一人のときは念仏させて頂いています。
もう仏書を読む力もありませんが、唯々念仏をさせて頂いています。
家族で念仏を讃談して、こんな楽しい生活であろうかと思います。

平成22年3月9日

今日月曜会がありました。
十人ほど集まって楽しく過ごしました。
メンバーが誰だったか覚えていません。
近頃は殊に忘れっぽくなってすぐ忘れてしまいます。
和子(娘)の親しい友人たちで30年以上集まっています。
紘さん(娘婿)も話をしてくれます。
こだわりのない目的のはっきりした実に良い会です。
互いに心を開いて話し合うさまは、ほれぼれするものがあります。
和子は何時もお友達に囲まれて幸せそうな人だと思います。
明治さん(亡夫)はいつもにこやかで、偏りのない人でした。
皆さんがおじいさんの事をなつかしがりました。
おじいさんのお念仏がここにも流れているなぁ~と思いました。
和ちゃんは「おばあちゃんが居てござるから子供文庫や内観、その他やるのや」と言ってくれました。
和ちゃんは「見てござる」という言葉が好きやと言ってました。
「お母ちゃんが見てござったから、色々やりたかったのや」と言ってました。
今日はお澤さん(姑)のこと一杯話してました。
楽しかった。
お澤さんの怒った顔は見たことありません。
お澤さんは頭のよく回る人でしたが、人を見下したりする事はなかった。
私もお澤さんに叱られた事無かった。
今日は月曜会の人々とお澤さんの話を一杯して楽しかった。

信は真宗で聞き、生き方は禅僧に学べ
真宗の信
・何事も知らぬこの身をそのままに みちびく種は弥陀にこそあれ
・はからはず南無阿弥陀仏と称ふほか 思うもいうも迷いなりけり
・念仏のこえだに口にたえせずば 御名より聞く信心の花
・生きてよし 死してまたよし法の身は かにもかくにも弥陀のまにまに
・うつむいてわが影くらくなげくらん 仰いでみよや願力の月
・となふれば 罪も障りも春の雪 ふりつつ消ゆる心地こそすれ
・今聞いてすぐに忘れる身なれども 南無阿弥陀仏の残るうれしさ
禅の生き方
身も心もはなちて仏の家へなげ入れて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき力もいれず、心もついやさず生死(しょうじ)を離れて仏となる。
・生きながら死人となりて なりはてて おもいのままにするわざぞよき
(我執、我欲をはなれて虚心で事に当たる)
・時は今 ところあしもとそのことに打ち込む命 とはのみいのち
・投げられたところでおきる小法師かな
以上いづれも先哲のお言葉

平成22年3月7日 大雨

雨が降ります 雨が降る
あそびにゆきたし 傘はなし
べにおのかっこも おがきれた
北原白秋作
近所へ遊びに行きたいけれど寺の坂の手すりが雨でぬれ、足元も滑るので遊びに行けず家でじっとしています。
みどりさん(娘婿の母)と和ちゃん(娘)と私と三人で大きな電気こたつに足を突っ込んで、座って遊んでいます。
私はテレビを見ているだけです。
和ちゃんはみどりさんに書いて話をしています。
三人で話をすることはありません。
みどりさんは耳が聞こえないのでお気の毒です。
食べる事だけは一緒に出来ます。
ほとんど一日中食べています。
和ちゃんも私もほとんどおやつは食べません。

この間中浪ちゃん(娘婿の妹)夫婦が来てたので、みどりさんはきっと嬉しかったと思います。
東京からようお母さんを訪ねてくれたなぁ~と思います。
今日は雨で外へ行けないから、にぎにぎしく飾ったおひなさん(ひ孫沙弥の初節句のため)と話をしてきます。
私はおひなさんを見るのが大好きです。

平成22年3月4日

今日は紘さん(娘婿)の妹の浪ちゃんが東京から来られるのだと言っています。
もし、延期になったらみどりさん(娘婿の母)がガッカリするからまだ言っていないのだと言っています。
さて、何のご馳走をするのかな。
和子(娘)は朝早くから料理を作っています。
近頃は料理で済ますことが多いのに、家で作っています。
和子一流の考え方だと思います。
和子はみどりさんの居るところは郷だから、郷は遠慮の無い料理が良いと言っています。
私は料理屋で立派なご馳走で迎えた方がいいのになぁ~と思います。
何度も来てくれる内に和歌山の立派な料理で食べて貰うと言ってます。
私はやっぱり料理屋にした方が良いのにと思います。
浪ちゃんのご主人も来てくれるのに悪いなぁ~と思います。
和ちゃんはケチとは思いませんが、やっぱり人様と違っていると思います。
浪ちゃんのお客は我が家としては大切なお客です。
それは和ちゃんもそう思っているのですが、もてなし方が違うのですねぇ~。
和ちゃんの賢たれのアホ。
これから朝ごはんよばれます。
御飯を作ってくれるお利口な和ちゃん。

平成22年2月25日

今朝方私の母上が迎えに来てくれた夢を見ました。
私もいよいよこの世界ともお別れの日が近づいたのかと思います。
お念仏を励みましょう。
“たのませて たのまれたまふ弥陀なれば たのむ心も我とおこらじ”
お母さんが迎えに来てくれたのだと思いました。
お母さんは父と共にアメリカへ行ったので洋食料理も上手でした。
すべて器用な人でした。

平成22年2月21日

おひな祭りをして大勢の人がお雛さまの前でご馳走をよばれました。
立派な鯛もあってとても賑々しいものでした。
山下真ちゃん(孫妙子の夫)のご両親もお見えになり、楽しそうに酒を飲んで遊んでくれました。
岡山のお母さん(娘の姑)と私は一緒に座って共に遊びました。
岡山のお母さんもさぞ楽しかった事だろうと思います。
和ちゃんの70歳のお誕生のお祝いもあって、あちこちから沢山のお花も上がって立派でした。
私の赤ん坊が70歳にもなったかと思うとあきれ返ってしまいます。
和ちゃんは小さい時から如来様の預かり者と思います。
一生懸命にお念仏するように育てたので、念仏するようになり嬉しく思います。

平成22年2月19日八時半

今日は高田さんとこへお参りに行ってきます。
久しぶりに姉妹に会うので嬉しいです。
私は転んで手を傷めたので一週間寝て、おとなしくしていました。
こう書いているのを横合いから和ちゃんが「梅林(南部)に行ったして」と言いますが
私は残念な事にもう忘れてしまっています。
年を取ったらあきまへんわ。

平成22年2月15日

非常に強い雨だけど梅見に南部へ連れてってくれるそうです。
うれしいなぁ~。
お弁当を持参する予定だったが雨でそれも出来ないので、何処かで食べるらしい。
“東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな”
菅原道真

世の中は大きな苦悩もあるけれど、お阿弥陀様のお慈悲は常に遍満しています。
明治さんは二宮尊徳の
“(音もなく、香もなくつねに)天地は 書かざる経を 繰りかへす(しつつ)”
二宮尊徳の歌をよく聞かせてくれました。

平成22年2月11日

今日は紀元節です。
高天原に神武天皇は降り立って、日本の国の天皇を宣言した日です。
それより万世一系、今日の天皇にその血筋が続いています。
このような国柄は世界中で日本国だけです。
とにかくありがたいというか、めずらしい国柄です。

平成22年2月10日

今日日記を書くのに頭を叩いたが、ポコリとも云わん。
つい先ほどまで和ちゃんのお友達が来て本堂で遊んで帰りました。
私も話は半分くらいしか聞こえませんが同席して楽しみました。
この間中は毎日オカユばかり食べたのでご馳走が食べたなった。
オナカ、ペコ ペコ。

平成22年2月9日

みどりさん(娘婿の母)と二人、朝から散髪をしてもらいました。
耳切られないでよかった。
切られたことは無いけれど、いつもひやひやしています。
今日は弥生さんとこへ遊びに行ってこようかな。
弥生さんは10歳ほど年下だが念仏の友達です。
和子が日記を書けと言うから書いているけれど、もう面倒くさくなってきた。
近頃はつくづく何でも面倒くさくなってきました。
年のせいですね。

平成22年2月8日

今日は年長者の月曜会で西川さん、毛呂さん、松尾さんの三人参加者。
30年以上長く付き合った和子(娘)の友人なので楽しく遊びました。

お昼には妙子(孫)が来たので和子は大急ぎでご馳走を作ってくれました。
私はお腹が悪いのでおかゆだけ食べました。
中岡のりえちゃんも来て一緒に食事をしました。
和子はりえちゃんが好きなようです。
夕方散歩に行って弥生さん(近所の方)の処で遊びました。
樹人(ひ孫)にはいつも念仏するように言っています。
その内に念仏のありがたみが身に染み込んでくれることと思います。
貴方は阿弥陀様の事を忘れがちだが阿弥陀様はいつもいつも貴方の事を思い詰め、守り詰めにしてくれているのよと言ったら樹人が”そう”と言いました。

平成22年2月7日

“やれうつな蝿はてをすりあしをする”
俳人一茶の事を思いながらこの句を書いています。
一茶の最後を過ごした五合庵(良寛)のことを思いながら書いています。
晩年五合庵を締め切って誰も中には入れないで一人で過ごしたと聞いています。
むさくるしい姿を誰にも見せたくはなかったのでしょうか。

私もここ数日下痢で寝込みました。
私には家族があるので十分な手当てをしてくれました。
ありがたいことです。

平成22年2月5日

東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春をわするな

平成22年1月31日

朝から焼きリンゴを作って呉れたので食べました。
美味しかった。
和ちゃんが味噌汁を作っていたが、私は食事を急いだので食べずに食事を終わらせた。
ご飯だけで食べているのを見て、「もうすぐおかずを作っているのが出来上がるのに気儘なひとやなぁ」と言いました。
私はそこですかさず「あんたの尺度が間違っているのや」と言ってやりました。
「94歳でもまだまだ70歳に負けません」と言ってやりました。
今日あたり何処かへ連れ行ってほしいなぁ~と思っています。
私の友達の中井かや子さん96歳にもうすぐなるのだと言っていました。
あの人は遠くの施設へ行っているので逢えないけれど、心の中でお念仏を通して逢ってます。

平成22年1月29日 その2

今日竈山苑へ行ったが親しい人々に逢いませんでした。

平成22年1月29日その1

今日は竈山苑のデーケアーへ行ってきます。
今日は仏様のお話を聞きたいという人が待ってくれている日とは違います。
両親のお蔭で仏法を聴かせていただく機会を沢山頂いたので幸せです。
94歳まで元気に置いて頂いたのです。
竈山苑で私のような者でも待ってくれると思うと嬉しいです。

和ちゃんは今フレンチトーストを焼いてくれています。
うしろから背中を見ていると、はばかりも無く大きい背中だなぁと思います。

平成22年1月28日 曇り

朝起きたらもう八時になっていた。
和ちゃんが昨日何処へ行ったのと言ったので、すっかり忘れてしもうた。
近頃はつい先ほどの事でも忘れてしまう。
本当によく忘れるようになった。
和子いわく、以前の事は良く憶えていると言っています。
和子の留守中に竈山苑へ行った事はよく忘れていると言っています。
そういえば私もよく憶えて細かく記憶していると思います。
この辺の区別はどうなっているのか、和子も知りたいと言います。
私も知りたいと思います。
必要な事は憶えているのだろうと思います。

今あたり孫(ひ孫)が一人増えると和ちゃんが言ってます。
関東の子孫の事は会わないから忘れると言ったら、「何か記念に書いてあげてよ。」と言います。
私の云いたい事は「念仏しなよ。」と云いたいです。
書くとしたらその事だけです。

平成22年1月19日 火

今日は若月会(月一回開かれる子育て中のお母さんの会)で大勢集まって
大御馳走でテーブルに載らないようでした。
ケーキもあって楽しかったです。
みどりさん(娘婿の母)のお誕生祝いに皆でお花をあげて手を叩きました。
若い人達でかいがいしくお鍋やご馳走を分けてくれました。
みどりさんは90歳だそうです。
ひ孫も大勢寄って来てうれしい。
樹人(ひ孫)の結婚式に出席します。
樹人はまだ好きな人は出来てないそうです。
今小学5年です。
20歳で結婚するから、おばあちゃん出席してねと言うので嬉しいです。
もう後は忘れた。

平成22年1月14日

今年もめでたく元旦を迎え、寺へ参られた方々に甘酒を差し出しました。
和子(娘)は時々甘酒を作ってくれますが美味しいです。
今年は岡山のお母さんをお迎えしての正月でめでたいと和子が言っていました。
おそらく張り切って立派なおせちを例年以上に作ったのであろうと思います。
今では内容を思い出す事は一つもありません。
やがて別れて行く四肢身体にはせつ別の状はありませんが、毎日がかくも幸せな日々を送るとは昔は想像だに出来なかった程幸せな日々を送っています。
若い頃はかなり激しく煩悩の強い性格だったので、激しく悩んだ事もあったけれど晩年お念仏のお陰で、穏やかな生活をさせて頂くのはこれもお念仏のお陰と喜んでいます。
煩悩一杯に生きさせて頂いた。おじいさん(夫)、お澤様(姑)、家族の皆々様、世間様ありがとうございます。
激しい私の煩悩は宝ものでした。
94歳の新春が明けました。
生きているしるしにこの書を書きました。

平成21年12月24日

今日はクリスマスイブです。
私達の子供の頃は別にお祭り騒ぎは無かったが、近頃は子供達のお祭りになっているようです。
和子(娘)は子供達にプレゼントを本堂であげていました。

今日も朝から沢山のご馳走を頂きました。
果物も色々ありますがリンゴは近頃擂って出してくれます。
岡山のお母さんが、リンゴが嫌いだから擂っておろしてくれる様になったのだと思います。
おじいさんにも何時も擂ってあげていたようです。

今日は家族で松原さん(和歌山在住の写真家)とこへ写真を撮ってもらいに行きます。
94歳にもなって何でもよいのだがやっぱり何を着て行こうかなあと思います。
大昔、赤坂(実家)に居ったころ家族一同で写真を撮った時、吉村春子さん(和高女の同級生)も一緒に撮った懐かしい思い出があります。
これを書いている横で和ちゃんは一人抹茶を飲んでいます。
お菓子は和ちゃん好みの落雁です。
私には呉れそうにもありません。
一人で飲んでいます。
アー コリャ コリャ
かってぼし。

平成21年12月22日

朝食をすませ今日の一日が始まる。
先ず合掌、如来大悲の恩徳を思う。
今日一日念仏を忘れずに生活をする事。
わすれても忘れぬ親があるゆえに、忘れる者をその身そのまま。

40歳前に入山して以来、檀家の皆さんに入信してもらいたい一心で来たが
果たして何人入信したことやらと思う。
人に信を勧める事の難しさを思う。
それにつけても私はようこそ、ようこそ今日までお育て頂いた事を有難く思う。
私の父は非常に強信の人であったが、6人兄妹の内で念仏の伝えられたのは私一人であった。

平成21年12月21日

いよいよ暮れになりました。
お寺の元旦は早朝から皆さんがお寺にお参りに来る事から始まります。
昼頃までして年頭の挨拶を受けてくれた総代さんたちと昼食を共にして楽しみます。

妙ちゃん(孫)が来てその辺の片づけをしてくれています。
沙弥ちゃん(ひ孫)は和子おばあちゃんにおんぶされています。

平成21年12月20日

もう正月も近い。
今日は竹子会(ちくしかい:内観の集い)の人達が早朝より来てお掃除をして来れています。
この会の人達のご様子を見ていると親鸞上人の御作の恩徳讃を味わえて来ます。
ご恩報謝を見えない私ですが、この方々の姿には心を打つものがあります。
尊い姿にみ仏様の慈育を有難く頂きます。
仕事からは逃げたい私ですが、私だけでなく誰しも理屈を付けて逃げたいのだと思います。
み仏様、お育ての程有難うございます。
(竹子会の方は)よろこんでご参加なさっているのだろうと思います。
み仏様の大きなお育てを驚いています。

平成21年12月19日

昨日は大阪の高田さんへお伺いした。
帰ってきて村田先生の勉強会(如月会)に参加した。
何を習ったのかもうすっかり忘れてしまった。
近頃は何も覚えられぬ、その場すぎるとすぐ忘れてしまう。
それに不思議な事にお念仏様だけはいつもブツ、ブツと心の中に沸いて下さる。
今日ドライブして何処かへ連れて行ってくれるらしい。
あゝ うれしい。

平成21年12月18日

今日も高田さん(高田米利さん:妹)とこへお参り(月参り)に行ってきます。
米利さんは和高女始まって以来の秀才と言われたが、後生の事は知っているのかなあ~。
才は皆この世に置いて行かねばならないのになあ。
大正三年生まれの中井かや子さん(檀家さん)は唯今施設で暮らしているが、お念仏と共に暮らすので淋しくないと言ってました。
懐かしい念仏の友達です。
あいたいなあ~。

平成21年12月17日

94歳にもなると頭がボーッとして西やら東やら分けが判らなくなる。
裕子も年を取ったものだなぁ~と思う。
和高女と言えば昔、県下第一の女学校を卒業したのに年には勝てん、かてん。
覚えた事も知った事も何もかも忘れてしまった。
ただ心に残るのは南無阿弥陀仏。
ようこそ、ようこそ私を助けてくださるとは有難い、ありがたい。
五体からも見放されていよいよ南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ。

私の子供や孫たちみんな、この幸せに逢ってほしいな。
ともかく無くなって唯々この南無阿弥陀仏だけが私について離れて下さらぬ。
ア~ありがたや、ありがたや。
五十年ほど正教寺の住職を勤めたけれど、檀家さんの中でほんの数人しか信心を頂いた人は無かったようです。
ほんとに到らない事でした。

和ちゃん(娘)、もう少し生きてもいいですか。
骨の折れる事ですがガンバッテ、和ちゃんよろし頼みます。
今日は遊びに行きたいが行く先が無いのでタイクツ、たいくつ。
道端で大の字になって寝てやろうかな。
昨日は前田さん(ご近所の和子の友人宅)処へ行ってよかった。
けれど今日もとは、そんなに毎日は行かれんと和子が言います。

平成21年12月15日 曇り

今日は何を書こうかな。
もうすぐ正月だが用意が出来たかな?
床の中で和ちゃんに用意ができたかなと尋ねたら大方出来た、あとは正月料理とお掃除のみと言った。
今日は年賀状を書く日だと言ってました。
正月、甘酒を皆さんに振舞うのに二十日過ぎから麹を寝さすと言ってました。
今年は賑やかな正月になると和子が言ってました。
岡山のお母さんは賑やかな正月でビックリすると思います。

平成21年12月14日 晴れ

赤穂浪士討ち入りの日。
大石内蔵助はじめ志の面々が主君の仇討ちに吉良の家に討ち入り、吉良の
首を揚げて泉岳寺に参り見事主君に報告した日。
暫くの間に人情は変わったものだなぁと思う。

我が家では昨晩、子や孫やひ孫が集まり紘さん(娘婿)の誕生会をしてくれました。
ケーキやご馳走が一杯でした。
岡山のお母さんも楽しそうにしてました。
ひ孫もおばあちゃん抱っこと言ってくれるのでうれしい。

平成21年12月13日 晴天

メガネを掛けても字がはっきり見えないので何時まで日記をかけることやら
判りません。
目も耳も五体は衰えているけれど、今生の何たる幸せな事よ。
あー極楽。
出て行く先は知りませんが、今生にお暇をするのが近づいているのに何と
幸せな事か。
お念仏がブツ、ブツと沸いて来ます。

来生の生まれるところまで注文はしません。
おまかせ、おまかせ。
毎日毎日が幸せです。
本来は、私は不幸を掻き集めて悲しむような人ですのに何と日々の嬉しいことか。

94歳 幸せ一杯。

平成21年12月12日 雲 曇天

今日は正月の年玉を作る予定です。
熨斗紙の上書きは早々に書いてあるので今日はたたむだけです。
和ちゃんと一緒にするので200ほど作るのですが安心です。
和子が言うのには、正月がくるので庭周りの仕事は紘さんがしてくれるので何も心配する事が無いと言っています。

破れ鍋に綴じ蓋と言いますが、和子と紘さんは二人よって丁度良く仕事をしてくれます。
子供の頃はお年玉を貰うのが楽しみで、「早く来い、来いお正月」と思ったが近頃は忙しく思うばかりです。
お正月のご馳走の段取りが気にかかるので毎日和ちゃんに言うと「もーこらえて」と言いました。
昔から和ちゃんばかりするのですけれど、私もやっぱり考える楽しみはほしい。
今日もまた正月料理の段取りをしてやろうと思っています。
お嫁さんだったら叱られるところでしょうが親子ならこそ世話が無い。
口答えでもしようものなら「おしめ洗ったの返してくれ返してくれ。」と言ってやろうかな。
それでも現実は私の汚したもの全部和ちゃんが洗ってくれてます。
あー こりゃ こりゃ。
どうにでもなれ こりゃ こりゃ。

平成21年12月10日

今思うと和ちゃんの一生は可愛そうな、忙しい生活であった。
その中でホクホクと念仏を喜ぶ姿は、ほほえましくもあり不憫であった。
口に出してそういうことを言った事は無いけれど、近頃暇があるにつけよくよく考えると幼い日から良く働いた大変な人生で、あの子は不足を言っているのを一度も聞いた事が無い。
入願寺さんの教えを受け「我が物と思えば軽し傘の雪」、「恩徳讃」も大好きなように子供の頃はよく唱ってました。

口では如来様の事も、地獄の事も話しませんが、心は常にそこにあったようです。
このような大変な生活の中でもいつもニコニコしていると人々は言いますし、私もそのように思います。
これもお念仏のお陰でしょうネェ~。
和子はご恩報謝は「ようせん」といつも言っています。
ボランティァもとても及ばないと言っています。
その辺の気持ちが徹底しているから不足を言わないわけでしょうネ。

私としては時には涙するような気持ちの時もあります。
良き法友と人生を共にさせてもらいました。
書きたい事、今日は山ほどありますがこれにて。
この字は女学校出た人の字でしょうかね。
もう疲れてきて書けません。

平成21年12月9日

上野さんお越しになった。
昨夜も今日もみ仏様のお話が出来てとても楽しかった。
ビデオを作ったりするカメラマンの人で仏法の話をしても楽しい人です。
年に1~2回お越になり、飲み明かしゆっくり遊んで帰ります。
和子より一回り若い人だけど、私を含めて皆で楽しく遊びます。
お酒も好きらしく、私と和子も一緒に飲みます。
物静かですが愉快な人です。
私も父の話や兄弟の話を一杯しました。
楽しい、楽しい一日でした。

平成21年12月8日

真珠湾攻撃
日米戦争始まる。
日曜日、日本はアメリカの不意をついて戦争を始めた。
東条英機が天皇のお心を足蹴にして独断で行った。
私の兄弟も二人戦死して両親に大きな悲しみを与えた。
敗戦の結果軍部が潰れて国民はヤレ、ヤレ。
軍部が力をもつと国民はヤレ、ヤレ。
≪以下口述を書き記す≫
目が覚めたら娑婆だった。
ナムアミダブツのお六字はこの人生社会に何よりの貢献。
私は食べて社会の恩恵を消化する力しかありません。
お念仏様はあまねく四方を照らして生気を与える。
干天続きの大地に慈悲の雨を降らすが如し。
あゝ こりゃ こりゃ。
唯今より和ちゃんの作ってくれた山海のご馳走をいただきます。
樹木は天恵の水にて蘇り、私は和ちゃんの心で潤う。
合掌

平成21年12月7日

昨夜から妄想が止まっているのでとても安らかな気持ちです。
やさしい好子さん(孫)と十分話をしましたので、心が満足したのでしょう。
私も94歳になり近頃は以前にも増して物忘れがひどいように思われます。
いよいよ借り物の身体全てをお返しして丸裸の自分だけで今生にお暇する折も近づいたようです。

忘れても忘れぬ親がある由に 忘れる者もこの身このまま

五臓六腑に染み付いた我欲と悪性のみを友として旅立つ日もそう遠くないでしょう。
毎日はこの上なく幸せです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ
目も見えにくくなり、いつ終わりになるかも知れません。

平成21年12月6日

悪性さらにやめがたし、心は蛇蠍のごとくなり。
94歳になってまさしくその通りだと思います。
私の頭は唯今モーローとしていますが、まさしくその通りだと思います。
ようこそ、ようこそ、この尊いみ仏様のご縁を頂いたことです。
これは一重に両親や明治さん(亡夫)のお陰です。
中でも私にとって尊い姿を形で示して下さったのは明治さんのお母さんの澤様の姿でした。
それを判るために70年の年月を要しました。
愚鈍な私をお阿弥陀様がようこそお育て下さいました。
私も応分の努力で次の人達にお示ししたいけれど、能力もさることながら力及ばず非力を申し訳なく思います。
昨夜は二時間にも及んで孫の好子と和子との三人で歓談してきました。
私の中ではこれほどやさしくて可愛い孫の行く末だけが心細く、心残りです。
生来聡明な孫ですからやがて雄々しく立ち上がってくれることと思います。
返す返すも幸せな人生でした。

平成21年12月4日

いよいよ私の身体がおかしくなってきた事を感じ始めるようになりました。
昨夜も今夜もベッドの辺りが竹やぶになったり、またその竹がゆらゆら揺れて
その辺りに何か数人戯れていたり、様々の景色が一瞬にして変わって行きます。
自分ではこれが妄想だと判っているのにはどうしょうも無い。
有難い事に怖いものは出てこないので、あゝ自分は悪い事してないので本来なら怖いものが出てきても当たり前なのに有難い事です。
あゝ私は守られているのだと思いました。
身体もこむらかえりしてつらい事が続きます。
一晩中、立ったり、座ったり、和ちゃんが足をもんだりしています。
楽しくもあり、つらくもあり、願わくば和ちゃんにあまり迷惑をかけたくないなぁ~と思いました。

こんな事でも今日紘さんに干し柿の名産地の四郷へ行ってきました。
足取りも非常に悪くなってきています。
岡山のおばあさんも一緒に行かれたので、こんなしあわせな私にしてあくまでも幸せとはありがとうございました。
このノートも絵からいっぱいのものと見えます。
家族に守られて幸せ者。

平成21年11月16日

しばらく日記を書くのを忘れていました。
先の日付は10月12日です。(注:実際は10/14ですが原文のまま)
このところ和ちゃん(娘)の健康状態が悪いので、私のことも最低限にしか構ってくれないから日記を書くのもおろそかになってしまいました。

日常生活も変わりが無いし、紅葉狩りや遊びにも行きます。
けれど和ちゃんの中では日記は後回しになるようです。
私の言った事を別紙に書いて置いてくれてそれを見ながら、私は日記を書いています。

岡山のお母さんはもうすっかり私たちの家族になっているような気がします。
和ちゃんが岡山のお母さんを大切にする気配りにはあきれてしまいます。
夜食なんかご馳走だからちょっと羨ましい気がします。
私は何時も夜中でも自由に食べてます。
まだまだ書きたいのですが今日はこれまで。

平成21年10月14日

昨日より頭の調子が悪くてフラフラするので一日中寝てました。
今日もまだフラつきます。
今日も一日中寝ていたほうが良いようです。
今日は始めて竈山苑へショートステイに行く事になっていたのですが、今日のところは取りやめにしました。
一日中寝ていましょう。
和ちゃんは気の毒に思ったのでしょう、朝から茶碗蒸しを作ってくださった。

平成21年10月12日

昨夜はマリーナ(和歌山市のマリーナシティー)の花火見物に家族一部が行きましたが、私は行かずに留守番をしました。
こんな事は始めてです。
台風の最中でも遊びに行く時は連れていって貰いたい性格ですのに、こんな事は始めてです。
年の所為でしょうかなぁ。
いくら年がとって和子(娘)というただの召使がいるので、小舟に乗ったようなものですが安心してます。
その和子も近頃ちょっと弱いので、注射嫌いの和子が毎日注射に行ってます。
和子は肝っ玉の大きい子ですが注射には格別弱い子でした。
赤ん坊の時沢山注射をしたので、それで怖いと思うのでしょう。
満州にいて乳の足らんのを知らなかったので栄養失調になったのです。
日本に帰った時、五番町(和歌山市五番町)のおばあさん(母)が子供の顔を見て栄養失調を見つけてくれたのです。
今日は和ちゃんを育てた利息の話を書こうと思ったのに脱線をしてしまいました。
本当は育てて、ただの利息で使っている事を書きたかったのです。

平成21年10月9日

10月の6・7日に白浜へ家族で旅行してきました。
18号の台風を目前にした旅行でしたが、とても楽しかったです。
今回エキシブでは泊まらずに食事だけでしたが、中華料理で大御馳走でした。
私もおじいさんだったら喜んだろうと思います。
紘さんが次々に注文してくれたので大きなテーブルは一杯でした。
岡山のお母さん(娘婿の母)もビックリするほど沢山召し上がっていました。
紘さん(娘婿)の隣に座って嬉しそうでした。
3歳の時からお育て下さった大切なお母さんだから、大切に御もてなしをしているように見えました。
紘さんが次々にあまりおもてなしをするので、お母さんがシンドクはないか
なぁと思いました。

夜は三段壁の上の海に面したホテルで泊まりました。
海も庭も綺麗でした。
海の見えるお風呂へは何べんも行きました。
ホテルの人も親切でした。
おじいさんもあちらから裕子楽しいかと言ってくれているようでした。
94歳にもなって家族と旅行が出来て嬉しいです。
満州では温泉は無かったのでしょう、一度も行った事ありません。

もっともっとあった筈なのに94歳は悲しい、みんな忘れてしまいました。
和ちゃんがメモした紙をカンニングしながら書いています。
これはカンニングですが、学生時代にはカンニングはしてません。
和高女は厳しかったので落第した人もいます。
名前も忘れたけれど実際落第した人もいました。
湯川會さん(学生時代の同級生)は新宮市から5年生の時吹上小学校に入り、続いて和高女に入り級長をしてましたが4年生の時東京の学校へ行きました。

平成21年10月3日

“月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月”
何方の歌か知りませんが何とよくうたった歌でしょう。
時折千切れ雲に顔見え隠れしましたが、ほんとに良い月を見せて頂きました。
法然上人様の御歌に
“月影の至らぬ里は無けれども 眺むる人の心にぞ住む”
主人が私のために短冊に書いて残してくれてます。
日夜それを読んで味わっています。

月明かりの道を和ちゃん(娘)と散歩しながらお互いの幸せを喜びあいました。
今日も孫やひ孫が大勢来て夕食を共にしました。
岡山のお母さん(娘婿の母)もとても嬉しそうに大はしゃぎしてました。
和子は岡山のお母さんが楽しそうにしていると嬉しいと言ってました。
私もその通りだと思います。
私もいよいよ老いてつい先ほどの事でもすぐ忘れてしまいます。
日記も私の言った事を和ちゃんに憶えて貰っていて、それを聞いて書くような始末です。
ずーと以前の事は覚えていますが、昨今の事はすぐ忘れてしまっています。
何もかも老化しました。
“弥陀頼む力なき我が為に さしのべ給う御手なりとは”
因果の道理と聞いていますが、私はかほどまでも幸せにおいて頂けるとは
種の無いところに花が咲いた様なものです。
合掌

平成21年10月1日

神嘗祭の月です。
学校が休みになるので嬉しかったです。
天長祭は駿河屋(和歌山の和菓子屋)の饅頭を頂きました。
冬野でもほとんどの田んぼは刈り取られています。
昔は稲を鎌で刈ってお互いに助け合って共同作業でしたが、今は機械で一人が乗って走ると藁と稲穂に分かれてちゃんと籾だけ別に出てきます。
便利になりました。
毎年富松さん(ご近所のお友達)からは初穂を寺へ上納してくれます。
もう1ヶ月程前の事でした。

平成21年9月30日

今朝4時頃起床して夜明けまで床の中で和ちゃん(娘)と話をしてました。
梨の剥いたのとチョコレートを持って来てくれたので、食べながら話しました。
これを本堂の南の松の下で書いています。
内陣の立派な前机を見ながら母が戦死した二人の兄弟の名前でこれ(前机)を本堂へ差上げたのです。
母は合掌して涙してました。
戦死した二人は小学、中学、高等学校、大学を卒業して、いよいよこれから社会で活躍出来る様になって急に戦死してしまいました。
親の気持ちは如何ばかりかと思うだに涙がこぼれます。
私は心から戦争を憎みます。
大は国家間の戦争から小は個人の戦争まで私の心の中の戦いまで、どれ一つ良いものはありません。
我執に振り回され苦しむだけです。
天下国家を論じる事は私には出来ませんが、私の大切な人生はお念仏に導かれて幸せでした。
生来私は頑固者一家の強い影響を受けて理屈っぽく育ちましたが、その上負けず嫌いでしたが念仏によりお言われを聞かせて頂き、ごく浅い事ですが自分を内観する事によって大自然の大きな恵みが私一人の為にあったのだと知れてまいりました。
ただ西を向いても東を向いても有難う御座いますと頭を下げるばかりです。

「もしもし裕ちゃん、心と書くのとの間に隙間がありませんか。」
「大あり、大あり隙間ばかりです。」
来月で94歳になりますが本音と建前を上手に使い分ける大嘘つきです。
それでもやっぱり幸せにおいて貰っています。
和ちゃんの健康が少し勝れない様なので、お友達も子供達も心配している様です。
皆さんがご馳走を持ちよってくれるので食べるのには不自由しません。
私の100歳の誕生祝いをしてねと頼んであるからきっと盛大にしてくれると思いますけどやっぱり心配です。
アーカンぺー。

平成21年9月29日

明治さん(亡夫)が和ちゃん(娘)によく教えていたという事を書きます。
布施の行には三種類あって
法施
財施
無畏施
の三種類あって、和子には和顔愛語と言うことを教えたそうです。
正しい法をお伝えする能力も無し、財を布施の行とする事も出来ない者にとって、静かでくつろいた心で暮らすと周りの者の自然とはお念仏の静かな満ち足りた心に触れて心が和む。
力の無いものにとって仏様からお与え頂く布施の道だという事で、お父さんは
和子のそう伝えていたそうです。

毎日和子と暮らしていますが、その教えは守られたかどうか知りませんが、
和子はやさしいなと思われます。
岡山のお母さんにもそのお念仏の心が伝わるのでしょう。
一生懸命に自分にあった仕事をしてくれています。
みんな、みんな尊いなあと思います。
きっと仏様のお光が隅々まで至り届いているのだと思います。

和ちゃんはちょっと病気らしく寝ていますが、その他の人は全員起きて働いています。
今日のお昼のご飯は妙子が炊きに来てくれました。
皆様に守られて今日も一日送らせていただきました。
有難うございました。
合掌
かわいい裕子さんより

平成21年9月28日

宏典(孫)が賢太郎(ひ孫)や遥菜(ひ孫)を連れて遊びにきました。
宏典は方々お掃除をしてくれました。
岡山のおばあさん(娘婿の母)もよく掃除をしてくれるので、和子(娘)は助かると言って
喜んでいます。
和子も大分年のせいかよく寝たがります。
岡山のおばあさんは、若い頃は針仕事をしたので繕い物などを良くして下さい
ます。
和子は生活の我が家の応援団だと言っています。
和子は岡山のおばあさんとよく話をしていましたが、ひ孫とも話をしている
様です。
和子は行儀悪くお母さんの横に寝転んでよく話をしています。

お浄土はどんなところか知りませんが、早く行きたいとはちょっとも早く
行きたいとは思いません。
そのうち白浜へ遊びに連れてって貰えるそうですから、今はその方が楽しみが
大きいです。

我が家の暮らしはささやかな暮らしだと和ちゃんは何時も言いますが、私は
最高の暮らしのように思います。
とにかくいつも楽しいです。
みんなもいつも幸せだったら良いのになあと思います。
お阿弥陀様はみんなに平等に幸せを与えて下さっています。

“月影のいたらぬ里はなけれども 眺むる人の心にぞ住む”

平成21年9月25日

今日は4時より目覚めたので朝食まで長いです。
果物類とケーキは食べましたが朝食はまだです。
暇だから前の日記を読み直してみると、字も間違っているし文章も
むちゃくちゃ。
90歳を過ぎるとこうも衰えるのかとびっくりしました。
もう日記を書くのをやめようかと思いますが、和子(娘)が書いてほしいと
言うので仕方なしに書きます。

和子はなかなか親離れの出来ない子供でこんな親でも頼りにしていると
言います。
あの子は乳離れが悪かったので乳に人の顔の絵を描いたら「キャー」と
言って、それ以来乳に寄り付かなくなりました。

あの頃はお父さんも生きていて満州国で副県長をしていましたが、県長は
中国人に決まっていました。
日本人は当時中国の人に失礼な威張り方をしていたが、主人はその様な
方々を批判していました。
家に居たボーイさんにも私たちと同じ米を食べてもらっていました。
その事は当時驚きだったらしく、ボーイさんが言っていました。
私の実家でも女中さんたちと同じ食事をしていました。
父だけは別室で洋食をとってビールで食事をしていました。
弁護士で頭のいる仕事だったので皆と一緒に夕食を摂るのは疲れたので
しょうね。

こんなきたない字を書いて、女学校5年も出、京都で更に上級の学校2校も
出た人の字とは思われません。
両親に「ごめんね」を言わなければなりません。
和ちゃんのご馳走がテーブルに並び始めました。
もうやめ!!

平成21年9月21日

夏の暑さも無事越えて、秋の彼岸となりました。
昨日早朝から宏典(孫)が来てお寺の手伝いをしていました。
初孫は43歳にもなったそうです。
私は94歳、ようこの年まで生き長らえたものです。
その間お念仏にお育て頂いて幸せ者でした。
この寺に入寺してはや55年感無量。
宏典は勤め人だから休日は貴重な日だと思いますが、一日中子供や家族と
離れて一人で寺の仕事を手伝いに来てくれるのは敬ちゃん(宏典の妻)のよき理解がある
からだと思います。
その一事にも宏典の家にもお念仏が伝わる事と思います。

もうすぐ6時です。
下の道を人の歩く声が聞こえてきます。
私もおぼつかない足ですが歩みが出来ます。
私の一家は岡山のお母さんを迎えてごく自然に楽しく暮らしています。
和子はこの事が一番嬉しい事だと言っています。
私と同じ席で和ちゃんもご馳走を作ってくれます。

平成21年9月18日

昨日の事はよく憶えています。
熊井さんのご厚意でとうとう吉野の更に更に山奥の洞川へ行かせてもらいました。
兄妹3人で一夏を娘時代に過ごした「西清」という旅館に行ってきました。
昔のたたずまいはすっかり変わり、玄関を入ると朱塗りの門で布袋さんが
迎えてくれました。
ご子息と女将さんに迎えられロビーに入りました。
ロビーでは吉野の葛とお菓子でもてなしを受け、この旅館の当主は9代目で
私たちがお世話になったのは7代目だったようです。
ご子息も良い感じの人だったので10代目も安泰だなと思いました。
兄の卓龍さんも勇哲さんも早く亡くなったので一緒にここで一夏を過ごした
思い出を語る相手はいなくなりました。
当時大峰山は女人禁制だったので兄たち二人で参ってきました。
当時女性の新聞記者が登山したので土地の人達が山狩りをして大変な事でした。
今は禁制がとれていると聞きましたが、当時高野山などは女人禁制が解けていたのにこの地では守られていたようでした。

勇哲さんや卓龍さんはお酒を飲んで、学生の分際だのに厚かましい事でした。
父母は私たちを楽しく育ててくれたのだと思います。
兄や弟もこの土地が気に入ってこの土地に別荘を建てようといって宅地を求めましたが、それも農地法で政府に取られてしまいました。
父も母も来て、山奥で土地が安いと言って大きな土地を兄が買うと言ったが
管理が行き届かないと言って大きな土地は買いませんでした。
いずれもみな終戦後の農地法で政府に取られてしまいました。
西清では露天風呂に入れてもらい、楽しい日々を過ごしました。
次から次と楽しかった事を回想します。
兄弟たちも戦死してしまい、父母もすでにこの世にいませんが楽しい思い出だけは残っています。
有難う。

和子(娘)に聞いたのですが、茶菓のおもてなしを頂き、入浴もさせて頂いたのに
お代金をお取りいただけなかったそうです。
またそのうえ帰りには大峰名産「だらにすけ羊羹」を下さいました。
やがて懐かしい人々にお会いする日も近いでしょう。
今日の熊井様を始め洞川の西清の方々の心温まるお持て成しをお土産話に
する事も近いでしょう。
御仏様の手の上で語り合いたいものです。
お父様、お母様、皆々様、裕子の一生は幸せ者でした。
有難う。

平成21年9月16日

今日は合い物のカーディガンを着ました。
今日は心がわくわくするほど嬉しい事があるので沢山書きます。
明日は高野山の続きの奈良県天川村洞(どろ)川に行きます。
ここは昔兄妹3人で夏場1ヶ月ほど居った所です。
真夏でも冬の布団を着てました。
涼しい所です。
おやつには前日食した炊き込みご飯のおこげが出てきて驚きました。
ごはんは米、麦、じゃがいも、三色の炊き込みご飯でした。
私たち、お客さんなのでそんなごはんでびっくりしました。
当時卓龍さん(兄)が値段交渉したので食事が落とされたのだと思います。
今思うと高い山の上まで下の方から運びようも無かったのだと思います。
客は大峰山へ参る人が多いようでした。
朝出発に畳の上で草鞋を履いて出て行きました。
夜は陀羅尼助(※和漢胃腸薬)と言う売薬、各地へ送る荷造りをしていました。
宮家にも送ると言っていました。

女の子で一人、撥ね退けにされている人がいたと思います。
かわいそうだなと思って見ていました。
仏法の厚い家で大きくなったので、仏教青年会へ由良の栄一さん(従兄)達に
連れられてお参りしたのでそのように思ったのだと思います。
お父さん、お母さん、皆々さん有難うございました。

明日和子(娘)の友達の熊井さんが
「にしせ」(西清:子供の頃逗留した洞川の旅館)へ連れていってくれます。
熊井さんありがとう。

平成21年9月5日

唯今午前4時半です。
鈴虫がリーン、リーン、リーンと鳴いています。
外はまだ真っ暗です。
バナナや果物を食べてお腹も膨れています。
和ちゃん(娘)のご馳走はもう大方出来上がっているようです。

先ほど来、カラスの歌を歌っていたら、カラスなぜ鳴くの、カラスは山に
かわいい7つの子があるからよ、可愛い、可愛いと鳴くのだよ。
このごろ和ちゃん、可愛いと言ってくれないと言うので、70年前なら
可愛いと言うけれど、もう70にもなれば可愛いと言えないと言いました。

お父さんも和ちゃんをことのほか可愛がっていました。
赤ちゃんであった和ちゃんの足を口の中に入れたりしていました。
昔、日本につれて帰った時、和ちゃん、和ちゃん、和ちゃんと
あまりあやしたので五番丁のおばあさんに笑われました。
おばあさんは子供7人もいたけれど、女中さんもいたが忙しくて子供を
あやしている暇がなかったのでしょうね!
テーブルにご馳走が並んだのでこれから頂きます。

追記
ただいま散歩より帰ってきました。
散歩中、東出の山あいにお日様が昇りました。
思わず両手を合わせて、今日もようこそお日様が昇ってくれました。と
拝みました。
横で和ちゃんも拝んでいました。
お日様の大きなお恵みの中にいます。
お日様のお働きは量りしれません。
お阿弥陀様のお慈悲のように。
よろずの神々、み仏様、皆様ありがとうございます。
散歩の途中、京都へ行くカヨちゃんに逢いました。
合掌

平成21年9月4日

朝早く散歩をして岡山のお母さん(娘婿の母)と2人散髪をしてもらいました。
私はいつも和ちゃん(娘)に散髪をしてもらっています。
耳を切らんといてよ。と言ったら和ちゃんはまだ一回も切ったことは
無いと言いました。
その後岡山のおばあさんと庭で2人で食事をしました。
それからちょっと寝て、もう1回散歩をしてきました。

岡山のお母さんが岡山へちょっと行くので、そのお土産を買いに出掛け
ます。
和ちゃんが書けと言うけど書くのがいやになって来ています。
こうなってきても
“未だ生まれざる安養の浄土は恋しからずそうろう”

平成21年9月3日

今日はとても暑いのにお昼に和ちゃん(娘)が、にゅう麺の熱いのを作って
くれたので閉口しました。

岡山のお母さんは「女の子があるとこんなにして炊いてくれるから良い
ね~。」と言いましたが、私はもっと気の利いた子供があったら良い
のにと思いました。

もう1時だから何処へ遊びに行こうかなあ。
弥生さん(近所のおばあさん)は留守だそうです。
弥生さんとは御法(信仰の話し)の友達と言う気がして良く遊びます。
房ちゃん(近所の檀家さん)ともよく遊びます。
近くに良い友達があって嬉しいです。

和ちゃんは良い召使で私は幸せです。
和ちゃんは召使の座から昇格させてほしいと言いますが、それは駄目です。
私にとって都合の良い召使だからです。
アーカンべー。

平成21年9月1日

今日はおじいさんの誕生日だと和ちゃんが言いました。
明治さんは元次郎さんの長男です。
弟さんは勗さん、妹さんはみえ子さん。
お母さんは澤さん。

澤さんは立派な人でした。
嫁の私にはちっとも文句は言わず、いつもにこにこして居られた。
黙って自分の仕事をしていた人。
おじいさんの誕生会で昼食に出かけます。
お城の見える日本料理店だそうです。
おじいさんは死んで15年ほどしてます。

平成21年8月31日

今日は栂野さん(ヘルパーさん)が来てくれて、お掃除をして下さっています。
朝ごはんは外の庭先で頂いて楽しかった。
今日は頭の中が空っぽ。

平成21年8月30日

5時半過ぎ散歩に出かけました。
西原から消防学校の方面へ40分程歩きました。

実は朝歩いた事はすっかり忘れて、和ちゃん(娘)に聞いて書きました。
近頃はつい先ほどした事も忘れてしまう様になりました。
ここからは朝食の事を書きますが、これは私が憶えていた事を書きます。

庭で朝食をとり、岡山のお母さん(娘婿の母)と2人見事なご馳走を頂きました。
和ちゃんの心の中は今日作ってくれているお弁当の様にいつも楽しいの
かなあ~と思われます。
岡山のお母さんは耳が遠いので大きな声で話をされます。
私も話しますが小さな声だから多分聞こえないのでしょうが、それでも
お互いに楽しくやっています。

岡山のお母さんは呉服屋の娘さんだそうです。
とても勤勉な人です。
庭を掃いたりしてくれる時もあります。
私はお掃除はしません。
皆で仲良くするので和ちゃんは喜んでくれます。

平成21年8月27日

朝 東出50分散歩。
“実るほど頭の下がる稲穂かな”
大分稲も実って来て頭が垂れてきた。
私もそうなりたいが、老いて益々先輩振りしたがる浅ましさ。
円熟どころか老醜をさらす恥ずかしさ。

こんな私をお救いの如来様とは、ほんに有難いみ仏様。
私は嬉々として日々を過ごしています。
今日も楽しく心一杯にご飯を頂いています。

平成21年8月26日

朝5時は真っ暗です。
リーンリーンリーンと鈴虫が鳴いています。
何を書こうかと和ちゃん(娘)に相談をしたら、昨日の散歩道での話を書いたら
と言われるのでそれを書きます。

稲穂がよく枝垂れているのを見て、私が実るほど垂れる稲穂かな。と言った
そうです。
人間も人柄が良く出来てくると人々に対して丁重になるんだと言うことだ
そうです。
私はすっかり、おっぺけぺんです。
つい先ほどの事もすっかり忘れているのに、威張りたい心いっぱいの
浅ましい人間です。
自分ほど偉い者はないと思う心にはちょっと驚きます。
私は現当二世のおすくいでとても幸せです。

8月26日、今朝は頭がぼんやりしているので、テーブルの上に並んで
いる食べ物の名前を書きます。
玉子とじ、いろいろ一杯入っている様です。
ゆば、おくら、きゅうりもみ、かぼちゃ、キャベツ、あげだし豆腐の
おぼろかけ、ぬかづけ、バナナ、ぶどう、なし、食パン、玄米粥、
高野豆腐の煮物。
湯葉豆腐の炊いたの美味しい。
この中からお互いに好きなものを食べます。

平成21年8月24日

今朝、朝食をすまし外が明るくなったら散歩に出掛ける予定。
まだ外は真っ暗かりです。
今、頂いているこの命、お念仏しましょう、しましょう。

これから和ちゃん(娘)と散歩にひがしでへ出掛けましょう。
足が達者だからうれしいです。
ひがしでには懐かしい人々がいます。
お会いできればうれしいがなあ。

8月24日
ヘルパーさんのトガノ様が来てくださった。
なつかしい感じがする人。
ご主人が五番町の隣のナショナルに勤めていられるそうです。

窓から涼しい風が吹き込んで良い気持ちです。
ご近所の一人暮らしの春子さんは施設に行かれたそうです。
家は私と岡山のお母さん(娘婿の母)と老人が二人いますが、家の中はとても
賑やかです。
和ちゃんは岡山のお母さんがずう~と一所に居てもらいたいと言っています。
私も同じです。
和ちゃん一人では仕事が出来ないので、今日からヘルパーさんが来てくれて
います。

平成21年8月19日

夏休み半ば、鈴虫が鳴いてとても賑やかです。
市中で生まれ育った私にはこの田舎の風情が好もしく思えます。
昔は田舎が嫌いだったのに変われば変わるものだと思います。

今日は何でか判りませんが、意気消沈しています。
和ちゃん(娘)に何だか叱られた様な気がしますが、もう忘れた。
アーカンべー。

平成21年8月14日

お盆まで命の頂いた事を先ず感謝いたします。
よくも神々、仏様、家族はいうに及ばず、皆々様のおかげをもちまして
今日まで命長らへて参りました。
無為徒食の身でありますのに大変幸せにおいて頂いています。
その中でも我が娘和子にはお世話になっています。

新たに岡山のおばあさん(娘婿の母)を向かえ、
皆で平和に暮らせるのは我が子ながら
和子の手柄だと思います。
一日中和子は手の休まる時はありません。
私も話をする間もありません。
わずかに入浴や夜寝る時話します。
それでも私は不自由していないから、私の事もしているのであろうと
思います。

和子がちっともふくれたり、怒ったりしません。
黙って仕事をしてくれています。
私は何もよう手伝ってあげないが、毎日幸せです。

和子は来生も親子でありたいと言ったので、又来生でも私の女中となって
親子でおろうと言いました。
来生でもお念仏しながら親子でありたいなあ~と思います。
孫たちやひ孫たちもお念仏をするようになってほしいなあ~と思います。
親に教育をつけて頂いたおかげで93歳にもなって、ぼつぼつ書けます。
有難いことです。

平成21年8月11日

今朝毛呂さん(ご近所の方)が来て、お堂のお花を活けてくれてました。
和子(娘)は毛呂さんとは信頼し合っているお友達だと思います。
玄関にも一輪、花を活けてもらって嬉しいと言っていました。
毛呂さんは境内も綺麗にお掃除してくださったと言ってました。

「もう書く事がない。」と和子に言ったら、「朝食の事を書いたら。」
といったけど、「朝食は何を食べたか忘れてしもた。」と言いました。
「スカイプで誰かと話したのでは。」と言いましたがそれも忘れて
しまいました。
古歌に曰く、
わすれても、わすれぬ親のある故に、忘れる者をその身そのまま。

地獄や極楽の事はわかりませんが、とにかく毎日が楽しい、
毎日が有難いです。
合掌

平成21年8月10日

日付も和ちゃん(娘)にいちいち聞かんと判らんようになってきました。
日記を書くのも心細いと言うと、今のことは忘れることが多いけど
旧の事はしっかり憶えている、大丈夫と言います。
衰えた思考力で何を書いても恥さらしだと思いますが、和ちゃんが
私が読ませてほしいから書いてほしいと言うので、仕方なしに書きました。

和ちゃんはテーブルの前で銀杏を割ってます。
横にアナゴが置いてあるから茶碗蒸しするかなと思います。
私は茶碗蒸しが大好きです。
和ちゃんの料理は朝も昼も夜も楽しみです。

弥陀たのむ、力さえ無き我がために、さしのべ給う御手なりとは。

たのませて、頼まれ給う弥陀なれば、頼む心も我とおこらじ。

おじいさん、眺めて見てくれていますか。
裕子は楽しく毎日を過ごしています。
おじいさん、おめもじの折ゆっくり話しましょうね。
あなたのお国からつぶさに見ておられるでしょうが、
今度お目の掛かる折にはゆっくり話しましょうね。
その時、そちらの国で彼女がいれば承知しませんよ。
裕ちゃんの席はちゃんと置いておってくださいよ。

平成21年8月6日

今日は蒸し暑いからお風呂に入ったけれど、
これから寝てみようと思います。
部屋はクーラーが入っているので気持ちが良いが外は暑い。

今トウモロコシを頂いたので美味しかった。
西原のえっちゃん(ご近所の檀家さんのお嫁さん)が、
すぐに食べられる様にしたのをお土産にして
下さったのでうれしかった。

平成21年7月31日

「いまだ生まれざる 安養の浄土は恋しからず候こと、いよいよ
煩悩の興盛にこそあれ。」と言うものの、
今年の夏は暑くて凌ぎ難いものでしたが、
秋には京都へ旅行したく
何とかこの夏を、乗りきらねばなりません。

平成21年7月30日

今朝散歩をしながら和ちゃん(娘)と話したこと。

子供の頃冬野(現在住んでいる所)へお墓参りに来る時、
竈山(地名)から歩いたり、毛見(地名)から歩いた
りして大変な所でした。
私は生涯住む地とは夢にも思いませんでした。
住めば都、田舎もまた良いものです。

平成21年7月29日

紘さん(娘婿)に送ってもらって
サカタ医院で点滴を岡山のおばあさん(娘婿の母)と
二人だけでして頂き、帰ってお昼の食事を頂きました。
岡山のおかあさんは新しい生活によくなじんでくれて、ありがたいと
和ちゃんが言っています。
和ちゃんは岡山のおかあさんとは仲の良い友達のようです。

岡山のおかあさんと私はそれぞれ自分の部屋に近い便所を使っています。
その両方を和ちゃんは日に何度も掃除をしています。

弥陀たのむ、力さえ無き我がために、さしのべたもう御手なりとは。
明日はあしたの風、何が起こってくるやら。
合掌

平成21年7月28日

皆で点滴をして頂き、海南市でお饂飩を食べました。
今朝和ちゃん(娘)がお風呂へ私と岡山のおばあさん(娘婿の母)を入れてくれました。
頭から足の先まで丁寧に洗ってくれました。
お風呂では顔を剃ってもらいました。

冷たい桃を剥いたのをよばれました。
朝のバイキングはテーブル一杯に並べてくれました。
岡山のお母さんは少しだけ召し上がりました。
お菓子が大方、でも元気にいけるみたいです。
私もお菓子は食べますが、おやつの時間にちょっとだけ食べます。

岡山のおばあさんは遠方から来てシンドイのだから、皆で応援しようと
言います。
私は和ちゃんの言うことはもっともだなと思って一所に応援しています。
和ちゃんはやさしいなぁと思います。
私もやさしい気持ちです。

平成21年7月27日

雨天
昨日は内観の集い(竹子会)の人々が見えて、お堂や庭木の剪定等々してくれた。
和ちゃんは嬉しかっただろうと思います。
お昼のごちそう沢山作らなかったので申し訳なかったと言ってました。
大分くたびれているのかなと思います。
今日これまでにしておきます。

平成21年7月24日

今朝散歩の時和ちゃん(娘)に話した事。
私は昔のことは割合憶えていますが、昨今のことは殆んど忘れて
しまって記憶がありません。
これだけ脳の作用が低下したのでしょうね。
日記に書くことも和ちゃんが時折の事をメモしてくれるから、それを
見て書く始末です。

今日は湯川會(あずむ)さんの事を書いたメモが出てきたので、その事
を書きます。
湯川會さんは新宮の産婦人科医の娘さんで小学校5年生の時、吹上小学校
に転校して来て和高女に入り級長を務め、4年生の時東京の学校に転校し
ました。
多分その上の学校を目指しているのでしょう。
「今頃は何様になっているのかなぁ。」と思います。
「幸せな一生を暮らしているのかなぁ。」

私は身体が弱かったので学校も休みがちでしたが、幸せな一生であった。
仕事嫌いな私は一生それを通し切った。
痛快者でしたがアッカンベー。

私にも思い出しても頬のゆるむ思いでもあります。
山東(地名)願成寺のおばあさん(祖母)がお小遣いが無かったようで
和歌山の別院へお参りするとき、
山東から三里の道を歩いて来たと聞いて
私がちょいちょいお小遣いを上げました。
結婚しても主人のボーナスの中から少し貰って送ってあげました。
子供に貰わず孫から貰ったと言って喜んでくれました。
今は昔、それらは遠い過去の事となりました。

湯川會(あずむ)さん・・・お名前の字が異なるかもしれません。
80年ほど昔のことで簡単に調べられそうにないためこのまま掲載させていただきます。

平成21年7月23日

朝の散歩から帰って来たら寺の前で
養老(地名)の健三さん(元総代さん)と会いました。
健三さんはどうしてか懐かしく思う人です。
和ちゃん(娘)は「健三さんは立派な人だ。」と言っています。
和ちゃんは大尊敬をしているみたいです。
お寺のことで大変なことを皆の先頭に立ってしてくれたと思います。
どんな事だったか忘れてしまっていますがね。

和ちゃんは私と歩いた次に岡山のお母さん(娘婿の母)と歩きます。
岡山のお母さんは夕方の散歩は先です。
私のほうが倍くらい歩くと言っています。

「今日の夕食は外食だ。」と紘さん(娘婿)が言ってくれました。
うれしいです。
毎日良いことばかりです。

平成21年7月22日

今朝の散歩で和ちゃん(娘)に進言した事。
1.老人でもカルシュームの補給が必要だから、小魚を料理すること。
特に岡山のお母さん(娘婿の母)は身体が横にくの字にいがんでいるから、気を
つけるように。
2.お菓子を出しすぎると身体の害がある。
3.名所旧跡をまめにご案内すること。
和歌山城や紀三井寺、根来寺、粉川寺、那智の滝、次々にご案内
する事。
裕子さんも同乗の事。
忘れてはいけません。
4.老人はお寿司が好きだから毎日でも作るように。
すき焼きもいいと思います。
5.芝居見物や旅行も楽しんでいただけると思います。
裕子さんの同席忘れない事。
これ一番大事。

アーカンべー

平成21年7月21日

今朝は5時半頃に散歩しました。
満州の空が赤くなった事を話しました。
今朝は老人パワーが大はりきりしました。
私は佃煮にする紫蘇の葉を摘みました。
大きなボールに山のように摘みました。
岡山のお母さん(娘婿の母)も出てきて草取りをしてくれました。
和ちゃんも草取りでした。

和ちゃん(娘)は私も69歳だから老人のうちだといって、93歳と89歳と
69歳で三人とも元気一杯といって皆で笑いました。
岡山のお母さんは聞こえないから、和ちゃんとは何時も筆談しています。
昨日は80枚書いていました。
皆は岡山のお母さんは聞こえないから気配りをしています。

お風呂の中で「如来大悲の恩徳」をうたいました。
二人とも朝風呂に入ってご機嫌でした。
岡山のおかあさんは、今お入りになっています。

平成21年7月19日

千両鍼のとしちゃん(海南市千両鍼院の鍼の先生)に頂いたハブ茶を沢山、沢山煎りました。
としちゃんと和子(娘)は大の仲良しです。
50年以上のお付き合いだと言っています。
和子はとしちゃんだけでなく御一族と仲良くしてもらっているようです。
あの一族は気配りが細やかで、親切だからうちの一族は皆お世話になって
いる事と思います。

私はもう朝からお風呂にも入ったし、朝食はうんと美味しかった。
我が家の朝食は今朝からバイキング形式になりました。
岡山のおばあさん(娘婿の母)への配慮かと思います。
お口に合わん物が多いのか量は少ししか召し上がりません。
(和ちゃんは)「岡山が恋しいから食事も進まんのやよ。」と
言っています。
でもお菓子は一日中驚くほど召し上がります。
我が家はいっぱいお菓子があるみたいです。

私もどうしたのか色々とする気が無くなってきて
和ちゃんに心配をかけています。

平成21年7月18日

唯今6時半ですが和ちゃん(娘)と二人で散歩して帰り、お風呂に入りました。
ゆっくりと40分も歩いたそうです。

昨日は高田さん(妹)とこへお参りしました。
好子さん(孫)に連れてもらいました。
おまんじゅうやメロンを頂きました。
1ヶ月ぶりで姉妹に逢うとうれしいものです。
メリーという名前は私が付けたので、戦時中であり級長をしていたので
呼び出される度々、敵性語のメリーさんと呼ばれるのを聞くのがいやでした。

和ちゃんは朝早く起きて一日中のご馳走を作ってしまうので、後はゆっくり
するそうです。
岡山のお母さん(娘婿の母)が起きて来られたら、和ちゃんは一日中筆談で話してます。

文字を書くたびに親に教育を就けてもらっているのを有難く思います。
沢山学校を出して頂いて有難いのに、93歳にもなるとこの文章、この字で
相すまぬと思います。

今日は宏典(孫)の家の引越しです。
樹人(ひ孫)が子供文庫に来ます。
子供文庫は今は芝さん(*)がほとんどしてくれます。
もう30年程も来てくれてます。
全くの無報酬ですのに心を込めて来てくれます。
和ちゃんは(芝さんを)大尊敬しています。

管理人注
*芝直子さん 文庫開設後間もなく乳飲み子を抱えて
まゆーら文庫にお越しくださいました。以来まゆーら文庫に
休むことなくお越しくださり、文庫に来る子供さんたちに紙芝居、読み聞かせ、工作など
たくさん教えてくださっています。『今日のまゆーら』の執筆もお願いしています。
元高校の図書館司書をされていました。

平成21年7月17日

今朝もうお風呂に入り、ご飯も美味しく頂きました。
今日は高田さんへ行きます。
妹に逢えて嬉しい日です。
和ちゃんが行けないので、私は召使なしで行かねばならず困った
事です。
紘さん(娘婿)とはいやです。
便所へ入る時不便です。
向こうもお便所へ入るのいやだと思います。
そのことが一番困っています。

和ちゃんは岡山のおばあ様の世話をしています。
近頃ご飯はうんと田舎風の料理に様変わりしました。
それでも岡山のおばあ様はなかなか召し上がるのは無いみたいです。
和ちゃんは腕の見せ所だと言って、今まで作ってない昔料理を工夫して
います。
私はそれが楽しみです。
和ちゃんは「正教寺丸、朝出発」と言います。
大声です。
二人でエイ・エイ・オーと言います。

平成21年7月21日

今朝は5時半頃に散歩しました。
満州の空が赤くなった事を話しました。
今朝は老人パワーが大はりきりしました。
私は佃煮にする紫蘇の葉を摘みました。
大きなボールに山のように摘みました。
岡山のお母さん(娘婿の母)も出てきて草取りをしてくれました。
和ちゃんも草取りでした。

和ちゃん(娘)は私も69歳だから老人のうちだといって、93歳と89歳と
69歳で三人とも元気一杯といって皆で笑いました。
岡山のお母さんは聞こえないから、和ちゃんとは何時も筆談しています。
昨日は80枚書いていました。
皆は岡山のお母さんは聞こえないから気配りをしています。

お風呂の中で「如来大悲の恩徳」をうたいました。
二人とも朝風呂に入ってご機嫌でした。
岡山のおかあさんは、今お入りになっています。

平成21年7月19日

千両鍼のとしちゃん(海南市千両鍼院の鍼の先生)に頂いたハブ茶を沢山、沢山煎りました。
としちゃんと和子(娘)は大の仲良しです。
50年以上のお付き合いだと言っています。
和子はとしちゃんだけでなく御一族と仲良くしてもらっているようです。
あの一族は気配りが細やかで、親切だからうちの一族は皆お世話になって
いる事と思います。

私はもう朝からお風呂にも入ったし、朝食はうんと美味しかった。
我が家の朝食は今朝からバイキング形式になりました。
岡山のおばあさん(娘婿の母)への配慮かと思います。
お口に合わん物が多いのか量は少ししか召し上がりません。
(和ちゃんは)「岡山が恋しいから食事も進まんのやよ。」と
言っています。
でもお菓子は一日中驚くほど召し上がります。
我が家はいっぱいお菓子があるみたいです。

私もどうしたのか色々とする気が無くなってきて
和ちゃんに心配をかけています。

平成21年7月18日

唯今6時半ですが和ちゃん(娘)と二人で散歩して帰り、お風呂に入りました。
ゆっくりと40分も歩いたそうです。

昨日は高田さん(妹)とこへお参りしました。
好子さん(孫)に連れてもらいました。
おまんじゅうやメロンを頂きました。
1ヶ月ぶりで姉妹に逢うとうれしいものです。
メリーという名前は私が付けたので、戦時中であり級長をしていたので
呼び出される度々、敵性語のメリーさんと呼ばれるのを聞くのがいやでした。

和ちゃんは朝早く起きて一日中のご馳走を作ってしまうので、後はゆっくり
するそうです。
岡山のお母さん(娘婿の母)が起きて来られたら、和ちゃんは一日中筆談で話してます。

文字を書くたびに親に教育を就けてもらっているのを有難く思います。
沢山学校を出して頂いて有難いのに、93歳にもなるとこの文章、この字で
相すまぬと思います。

今日は宏典(孫)の家の引越しです。
樹人(ひ孫)が子供文庫に来ます。
子供文庫は今は芝さんがほとんどしてくれます。
もう30年程も来てくれてます。
全くの無報酬ですのに心を込めて来てくれます。
和ちゃんは(芝さんを)大尊敬しています。

*芝直子さん 文庫開設後間もなく乳飲み子を抱えて
まゆーら文庫にお越しくださいました。以来まゆーら文庫に
ほとんど休むことなくお越しくださり、文庫に来る子供さんたちに紙芝居、読み聞かせ、工作などたくさん教えてくださっています。『今日のまゆーら』の執筆もお願いしています。元高校の図書館司書をされていました。

平成21年7月17日

今朝もうお風呂に入り、ご飯も美味しく頂きました。
今日は高田さんへ行きます。
妹に逢えて嬉しい日です。
和ちゃんが行けないので、私は召使なしで行かねばならず困った
事です。
紘さん(娘婿)とはいやです。
便所へ入る時不便です。
向こうもお便所へ入るのいやだと思います。
そのことが一番困っています。

和ちゃんは岡山のおばあ様の世話をしています。
近頃ご飯はうんと田舎風の料理に様変わりしました。
それでも岡山のおばあ様はなかなか召し上がるのは無いみたいです。
和ちゃんは腕の見せ所だと言って、今まで作ってない昔料理を工夫して
います。
私はそれが楽しみです。
和ちゃんは「正教寺丸、朝出発」と言います。
大声です。
二人でエイ・エイ・オーと言います。

平成21年7月16日

朝一番にお風呂に入って朝食を快適に頂きました。
岡山のおばあさんがいつもよりずっと遅く起きてきたので
和ちゃん(娘)と一杯話しをしました。
大方は満州の話でした。

和ちゃんが「岡山のおかあさん、ご近所の人も知らんし寂しいやろなあ。」
と言っていました。
和ちゃんは私と心を合わせて岡山のお母さんの事を一生懸命思って
いるから、岡山のおばあさんも少しは心が紛れるだろうと言っています。
和ちゃんは「何べんも私に、ありがとう。」と言ってくれます。
私こそ平和に過ごさせて頂いて有難いのです。

高野山に行きたいのに、まだ連れて行ってくれません。
高野山は女学校の時、毎年冬の大寒になると高野山に登りました。
訓練の為かな、身体の前後にタオルを巻きつけ、頂上に来ると
そのタオルを抜き取り、おにぎりを食べました。

我が家に大勢の職人さんが来て、台所の北側で道路から二階建ての
様な物を造って、その上で何か仕事をしています。
北側で涼しいから私の部屋かも知れません。
冬は寒いぞ。
くわばら、くわばら。

(残念ながら作っているのは倉庫です。管理人注)

平成21年7月15日

まだ7時ならないけれど朝食をすませ、風呂にも入って気持ちが
良いです。
風呂では和ちゃん(娘)と昔話をしたり色々の事、話をして楽しいです。
こんな良い話し相手をよう産んで、育てておいたものだと思います。
相当な高給を出してもこんな話相手は見つからないと思います。

いま物置小屋を作っているらしいけど、私には判りません。
これからお茶飲んで近所へ遊びに行ってきます。

岡山のおばあさん(娘婿の母)は一人暮らしだそうです。
唯今は冬野に来て遊んでいます。
和ちゃんは毎日岡山のお母さんに葉書を書いていたけれど、唯今は
家に居られるので書いてません。
和子は筆談しているので2ヶ月分も3ヶ月分も書いていると思います。
ほとんど毎日書いたら20年で、年間300枚として20年で6,000枚に
なります。
和ちゃんとお母さんは「心が良く通じているだろうなあ。」と思います。

平成21年7月14日

岡山のおばあさん(娘婿の母)はご飯をちょっとしか召し上がりません。
一人暮らしだったからほしくないのかなあ。
我が家は和ちゃん(娘)の35品目信仰で朝から少量づつですが
タップリ頂きます。

和ちゃんは意地悪をしているのでは無いと思いますが、岡山の
おばあちゃんは耳がすっかり聴こえないので葉書大の紙を山の様に
積んで、いつも筆談をしています。
岡山のおばあちゃんは大きな声で話をします。
自分には聞こえないからだと和ちゃんが言います。

あの二人だけで毎日一日中話をしています。
私はすることが無いので大方寝ています。
和ちゃんがその内、皆で調和が取れる様になるから待っててよ。
と言います。

夕食は子供たち全員集まって、おばあさん歓迎で食べます。
其の為に和ちゃんはやっぱりウンと忙しいことです。
私も何か手伝えたら良いけど。
和ちゃんと話したいです。
私に似てベッピンの和ちゃんが恋しいです。

平成21年7月13日

蒸せ暑い南風(まぜ)が吹きます。
我が家は天下の一大事が起てます。
岡山の御母上(娘婿の母)が病気で来て下さいました。
私より三歳ほど若いと思います。
お目にかかって私よりはるかに老人のような気がします。
真言宗の方だから総本山の高野山へお供したいと思います。

紘さん(娘婿)が三歳の時からお育て下さった人です。
大切におもてなしをしたいと思います。

私は天下に無類なほど気儘な自由人を押し通して人、また岡山の
お母さんはご苦労の多い一生だと聞いています。
自律心の強いしっかりしたお人柄です。
和子(娘)はこのお母様を大尊敬しています。

お澤様(姑)ゆずりの和助(和子)はこの面白い舞台設定をどうこなして行くか、
ちょっとした見物です。
和子はこの御苦労の多かった岡山のお母さんが、藤浪丸の母船で
心から寛いで全てを放下して心から安心して頂けなかったら、自分の
行き方のどこかに間違いがあったのに違いないのだと言います。

岩もあり、木の根もあれど、さらさらと たださらさらと、水の流るる。

正教寺劇場のはじまり、はじまり。

平成21年7月11日

曇り空、小鳥が鳴いている。
今日は何をしようと思っていることありません。
これから和ちゃん(娘)と2人で風呂に入ります。
昨夜も入ったのだけど、また入ります。

和ちゃんはお風呂に入るまでに沢山の仕事をします。
よく働く召使で私の老後は安泰、安泰。
こんな立派な召使を育てあげたのは裕子さんです。
お澤様(姑)があの世でフ・フ・フと笑っているのかも知れません。

和ちゃんはただで働く良き召使です。
感情を交えず黙ってする事をするのは、お澤さんの伝統だと思います。

お澤様は若くして未亡人となり、信用組合で働いて子育てをして
くれました。
男の子2人を立派に育て上げた上に、大学まで出したのに2人とも
満州へ行きたいと言ったので、行かせたそうです。
戦争のため息子たちが十年、二十年経って帰ってきました。
お澤さんはその間、不足を言ったこと無かったそうです。
評判です。

平成21年7月10日

昨日は沢山お客の来る日でした。
その中の一人が高田米利さん(妹)と自分の叔母が同級生だと言っていました。
その客に私は昔、薬を山のように飲んでいた事や、ここ数年少しも薬は
飲んでいない事や以前は毎日ほとんど寝ていた事、唯今は少しも寝ない
事など話すると驚いていました。
こんなに瞬時にして体調が変わったのは、自分の気持ちがすっかり変わ
ったからでした。

長い間のお念仏のお育てが、数年前正教寺で受けた内観で自分としっかり
向き合って実を結んでいたのだと思います。
93歳にしてこのように元気で幸せに日を送れる私を、私の両親や私を
知る全ての人々は想像出来たでしょうか。
永の御心配りありがとうございました。

今日は一日何して遊ぼかな。
弥生さんとこと房ちゃんとこへは毎日歩いて遊びに行っています。
今日は一日和ちゃんが紘さんの車で連れていってくれると思います。
うれしい、うれしい、うれしい。

平成21年7月9日

7月7日の七夕の日にえびね温泉へ行ってきました。
眼前に日置川が流れ、見晴らしが良かった。
一面のガラス張りで、あの日は田辺地方の集中豪雨で川は
大濁流で氾濫するほどであった。
床上浸水や死者も出たそうです。
その地も突ききってその地に来たので、若い人には無理だなあ~
と思いました。
運転の苦労を知らない私は、後ろで楽しく、楽しくドライブしました。

大賀はすの池も見せてもらいました。
毎年来たと思いますが、千年前のはすの種を大賀という人が植えて
発芽させたのだと言われます。
古墳の中で千年の間、そのはすの種が生きていたのだと言われます。
大賀博士の発見で発芽にふさわしい条件が与えられて、千年目に
発芽に至ったと聞いています。
今では日本の各地に植えられて、大賀はすといわれ珍重がられています。

私は生物学上の事はさほど興味はありませんが、自分の身に引換えて
味わっています。
日々に私の行いの種も必ず条件が整えば結果が出てきます。
釈尊の申された因果の理法に適っていると思います。

私はこの理から、自分がうまく逃げるために、つまり唯今の結果が
心に良いものでなければ、他人が作った原因のように思いたくて
過去世で蒔いた種が今出てきた。
うまいこと私に原因が無いかのごとく思いたかったりですが、それでは
大問題の解決はしません。
自分から逃げてはだめです。
まだまだ書きたいことありますが、今日はこれにて失礼。

平成21年7月2日

前の日が6月18日なので、長いこと休んでいるのにびっくり
しました。
あて、頼りにしていた頭も、もうすっかり衰えてその間何をして
いたのかすっかり忘れて分かりません。

その間、和子は毎日気配りをしてくれていたのでせうが、忘れて
何も覚えていません。
覚、不覚にかかわらず全くその間の事は覚えていません。
いよいよ頭も、身体も衰えました。
私の四肢はいよいよ衰えました。

「わすれても、わすれぬ親がある故に、わすれる者をその身そのまま」
ありがたいことです。
大きなお恵みの中で、毎日過ごさせていただいています。
毎日楽しく、楽しく暮らしています。

平成21年6月22日

もう早朝からお風呂にも入りました。
和ちゃん(娘)とお風呂に入りながら話したことを書きます。
身体中自由に動くし、幸せだな~と思いました。

お友達のカヤ子さんは早くから施設に入ってます。
一人で念仏しながら喜んでいると言ってました。
私の母も早くから施設に入っていました。
家政婦さんを一人つけてもらって永年施設で暮らしていました。
母は早くから頭が悪くなっていたと思います。
家では居れなかっただろうと思います。

お澤様(姑)は最後まで家で居りました。
頭はボケてませんでした。
明治さん(夫)はとても親孝行な人だったから、息子と居れて良かったと
思います。

和ちゃんはその頃まだ若かったから、今ほど充分に気配り出来なかった
と思います。
お澤さんは和ちゃんが大好きだったが、和ちゃんは至らなっかたと
思います。
私の毎日は実に快適です。
皆さん、皆さん、有難う。

平成21年6月17日

和ちゃん(娘)が昼から留守をしたので、親にへぐれた子供みたいに
一日中難儀をしました。
好子さん(孫)も、紘さんも家に居るのに難儀をした。
大方 富松さん(近所のお友達)の所へ遊びに行ったのだと思います。
昨今の事が思い出せないのは老化のせいでせう。

今日は何して遊ぼかな。
和ちゃんは一人で外出することが無いと言ってるので、ほっとします。
今日のご馳走は何かなぁと思って考えています。

おすしをくれるらしいけど、茶碗蒸しも食べたい。

平成21年6月16日

今考えている事は、美味しい物を食べたい、と変わった所へ遊びに
行きたい、とそれだけです。

紘さん(娘婿)まだ起きて来ないので(※紘さんは早く起きているそうです。)
車を運転する人がいないと、アカン。
和子(娘)が自動車運転出来たらよいのに、それが出来ないから、アカン。

和ちゃんが運転出来たら私の行きたい所、毎日行けるのに残念です。
こう書いていたら和ちゃんが横から「毎日紘さんに連れてもらって
いるのに。」と言いました。

浜辺に行ったり、山遊びしたり、夕食はレストランで食べたり、遊び
放題と遊びたい。
もっと、もっと遊びたい。
アーカンべー!

平成21年6月15日

私は中井明治(夫:物故)さんと結婚したので一生幸せでした。
優しくて、怒らぬ、温和な人柄でした。
大阪外語学校の中国語科を出て、満州国の官吏となって満州で
勤務してました。

私と結婚した時は下九台県で新京の近くでしたが、二ヶ月程して
治安の悪い華でん県に転勤しました。
当時、私は外出する時は常にボーイさんに守られて外出しましたが、
別に恐ろしいと思いませんでした。
楽しく月日を過ごしました。

おじいさんの座右の銘は「無為にして為す。為して為さざるなし。」とも
言っていました。
時を経て考えると、お澤様(姑)もその通りのお方であったと思われます。
ご近所の人達は「
おいやん(おじさん)は誰にでもやさしかった。」と言ってくれます。

和ちゃんは「大きな自然の慈悲の中で生きていてくれたから、威張ること
も、卑下することも無く、比べることも無く、静かに大切な人生を過ごして
くれたのだ。」と言います。

おじいさん、そちらから私が見えますか?
幸せに暮らさせてもらっていますよ。
日常の生活は自分でほとんど出来ません。
それでも幸せなのですよ。
ありがとう。
合掌

平成21年6月14日

昨日は岩崎順子氏の講演を聞きに行きました。
いつもお寺によく遊びに来られる声であり、大きな声なので
よく聞こえました。
ありがたう。

帰りに好子さん(孫)がおばあさんに贈り物といって、つばの大きな
帽子を下さりました。
好子さんは優しいのでうれしいです。
和ちゃん(娘)と同じように静かな物言いです。

私は93歳です。
今までは一度も家族から厳しい言葉で言われた事はありません。
私も世間並みに身は老化しています。
その上生来のプライドの高さとは実にうまい言い方で、これは
いばりの心です。
皆様がよく辛抱してくれていると思います。

樹人(ひ孫)は「おばあさん、死なんと長生きしてよ。」と言います。
妙子(孫)に教えてもらっているのかもしれませんが、樹人の心が
大分入っていると思います。

和ちゃんは「おばあさんは生きてくれているだけで、宝物や。」と
言ってくれます。
私についやしてもらっている、和ちゃんの気配りは誰も肩代わり
することは出来ないことです。

和ちゃんにそう言ったら「おばあさんの様な人だったら、世の中の
人は皆が喜んで大切にしないではいられない。」と言ってくれました。
世の中の人、皆が私のように幸せになってもらいたい。
「なむあみだぶつ。」

平成21年6月11日

樹人(いっと:ひ孫の長兄)から手紙を頂いた。
「あばあちゃん、死なんといて。」と言ってきたが、
これにはお答え出来ない。
「死ねてきたら、死なねばならぬ。」
「死んでも極楽に生まれてまた、樹人とお会い出来ると上々、
樹人よ、後生の一大事と言うことがあるのよ。」
「貴兄のこの問題は先ず解決してくださいね。」
「あなたは如来様のお法を良く聞いて、その後皆に聞かせてあげて
下さい、お願いします。」
今日は樹人の事ばかり書きたい気持ちです。
樹人は一番大きいから、私と沢山お話しているからでせうね。

佛様の御慈悲を知るには、先ず自分自身を知るのが第一です。
人間、自信を持つことが大事なことですが、先ず自分の至らなさを
よく知り、反省をしても、しても、その後から威張れてくる自分を
厳しく見てくださいね。
その厳しさが自分の身に至り、届くのが大事です。

そうした時、至らぬ者をすっかり見通した上で丸抱えして下さっている、
大いなる天地、御佛様の慈悲(他力)に出会うでせう。
しかしその心境は自分を見ることに、ごまかしや、甘さがあっては
到底腹の底から知らせてもらうことが不可能な心境であることを、
私の大切な樹人にお伝えしておきます。

自信と言うのは、このような厳しい己を姿を知ると言う事から始まって、
そのような自分をただのただで、丸々条件なしで引き受けてくれる
大いなる御佛様(他力)にめぐり合っての上の自信であってほしいです。
あなたが大きくなって御佛様が判らなければ、ごくごく身近な事から
見ていって下さい。

私の心にある伝えたい御佛様は全ての事、ものの中に混在しておわし
ますから、和ちゃんに聞いてよくよく大切に一回限りの、たった一瞬の
チャンスを心から戴いて生きてください。

まだまだ書きたい事は山ほどあるのですが、最後と思って書きました。
それでも明日、明後日も書くつもりです。

平成21年6月10日

6月1日から日記が途絶えていて驚きました。
寝込んでいたのでは無いのに、毎日何をしていたのかと驚きます。

きっと一杯楽しい事があったのでせうに、書いてなくて残念です。
読み返して楽しむことも出来ません。
学校へ通わせてくれ、文字を習わせて下さった両親に感謝します。

昨日のことを私の走り書きのメモを見て書いてみます。
和子(娘)の友達二人来て、一緒に食事をしました。
同級生が集うのは楽しかろうと思いつつ、私も一緒に食事をしました。

和子は無理難題を仰せつかったと頭を抱えていました。
私もその難題には大賛成です。
命を無駄に使ってはもったいない。
和子よ、一回きりの命、大切に使いなさいよ。

平成21年6月1日

はや6月で驚いています。
先ほどから和ちゃん(娘)の作ってくれたお寿司を頂きました。
私の体調もいよいよ勝れなくなったので、はっきりと書きたいと
思う事を認識して文字に出来るのもここしばらくかと思っています。

年来考えていていつかは口にしたいと思っていた事を、待ったなし
の時が来たと思うので本日心して記します。

和ちゃんとは非常に良い心の通い合った親子で一生来ましたが、
その間一時大層めずらにかかる憎くしみに近い思いを持った時期が
ありました。

原因の第一は(和子が)内観を始めたことです。

表面のことを調べて気が済んで先生面する。
佛法の大道から言うとそんなことに情熱を傾ける馬鹿者であったの
かと腹を立てました。

これも我ほど偉い者はないと言う我執であったと、ようやく気付かせて
頂いています。
しかしその奥にもっと本当の心があったと思います。

それは和子に尋ねて来る人が非常に多くなって、近畿一円は言うに及ばず
もっと遠くから尋ねて来るのを見て、次第しだいに私の心は歪んで行ったと
思います。

和子が内観者様と様までつけるのを聞くと、人にへつらってと思って
身の毛が立つ程腹立たしいと思ったことをハッキリと覚えています。

恐らく私を通り越して和子を尋ねて来ると言うところに、私のプライドと
嫉妬心が大暴れしたのだと思います。
今なら良くわかります。

内観者様やお寺を尋ねてくださる方を佛様のお正客と謹んで敬ってお迎え
していたと言うことは、私もずっと同じ心で来たのに、途中で脱線した
のは返す返すも和子に可哀想な事をしました。
もうこれだけの事を書いたら「ホッ」としました。

和子は「おばあちゃんのおかげで私の思想の基礎を作って頂いた」と
言ってくれます。
お恥ずかしいことです。

私の考えが脱線の地獄に落ちているとは気付かずに、和子を陥れ入れたいと
私の下に一應させたいと狂ったことでした。
今考えると、その間も和子は今と同じように良くしてくれていたのに残念
でした。

合掌

平成21年5月31日

和ちゃんが去年の3月に書いた日記、10日分程読んでくれました。
内容については思い出せる事が多いです。
けれどガッカリした事もあります。

去年は随分広範囲に渡り書いていたので驚きました。
自分の文字もはっきり見えないし、いよいよお国替えの頃に
近づいたかと思います。

かねてより、私を抱き取ってくれる親様が居られるので、
心丈夫です。

弥陀たのむ力さえなき我がために、さしのべたまふ御手なりとは
合掌

平成21年5月29日

日付を見たら昨日はよう書いてない見たいです。
宏典(孫)に言われてるので、毎日書きたいと思っていますが、
つい忘れることもあります。
今日は書きたいことがいっぱいあると思うのですが、
今思い出せません。

和ちゃん(娘)が先日、私の言ったことをメモしているので、
出してあげると言ったのでそれを見て書きます。

このお寺は七百年余りの歴史があるのだそうですが、
その中の一瞬の間に裕子が生きさせてもらうんやなあ~。

私は小学校から女学校の頃、日曜日には由良の栄一さん(叔父)やヤッサン
誘いに来てくれて、鷺の森別院や本町三丁目の小山法城さんのお寺へ
佛教青年会に参りました。
小山さんはその頃、西本願寺の司教でしたがその後、勤学寮頭に
成られました。
まあ、そんな風にして御法を聞く素地が少しづつ、つくって頂いたか
と思います。

一族で心は同じ方向にむいていたので、(佛様のこと)有難いことでした。
私の父と由良の叔母さんは兄妹でした。
ともに法儀が厚かったのは、そのまた先祖に御法に厚い人が居って
くれたのだと思います。

私は敗戦後の中国での生活を経験して、大切な主人はロシアに
連れて行かれ、娘の和子は法定伝染病のジフテリアになり生死を
さまよい、下の子(厚子)も麻疹(はしか)をこじらせてやはり生死を
さまよい、何度にもわたる強制立ち退きで苦労しました。
強制立ち退きに際しては、以前に現地解散した兵隊さん達に
わずかばかりの雑炊を分けて、露命を互いにつなぎあった事も
あったので(中井さんが立ち退きと聞いて)引越し先をつくり、
馬車をしたてて数人で助けに来てくれたこともありました。

その時はすでに主人も居らず、病み上がりの子供二人を抱えて
途方にくれていたので、うれしさで涙がこぼれました。

終戦から半年、変化の多い時でしたが涙が出たのはこの時が
初めてであったと思います。
いよいよ一年目(敗戦から)に日本に帰る為の移動をすることになった時、
皆がお金を分散して隠して帰りましたが、私は主人の元の部下達をよんで、
移動のためのお金の無い人々に、ともに日本に帰りたい心は同じと
思って分け与えました。

その後にも大波小波といろいろの事がありました。
その時々を凌げたのは、お育て頂いた佛法様のおかげと思います。

ご先祖の皆々様、佛法をお伝えくださった方々、ありがとうございました。
まだまだお心を充分に頂けた等とはとても申せませんが、やがて
おめもじの折はお礼申し上げたいと思います。

「倶会一処」合掌

本日のは、以前の原稿の写しです。
今、和ちゃんのお茶を飲みながら外を眺めたら、紘さんが庭の
掃除をしてくれています。
和ちゃんが紘さんは尊い人だと言いますが、
「ほんに、そうだなあ~」と思います。
「紘さんのご両親も立派な人だな」と思います。
まだまだ書きたいのだけど、コーヒーがさめるのでやめます。
合掌

平成21年5月27日

今朝お庭で食事をして楽しかった。
和ちゃん(娘)のご馳走は美味しいから、「小鳥がホシイ、ホシイと
鳴いているのかなあ~」と思いました。

今日はサバ寿司をしてくれるようです。
私は、お寿司は大好きです。
うれしいです。
毎日ご馳走いっぱいです。

和ちゃんの料理はお金をあんまり掛けてないと言っています。
私は時間と心をいっぱいかけてあると思います。
これだけ心を込めて作るから美味しいのだと思います。

アゝ、サバすし、うれしい、うれしい、うれしい。

和ちゃんは太いし、ちょっとぶさいくですけど、
お料理は上等のピカ、ピカです。

紘さん(娘婿)はぶさいくな和ちゃんだけど、お料理おいしいから
ちょっといい点数を付けてくれるかなあ~。
ア~ コリャ、コリャ、コリャ。

裕ちゃんは料理はヘタで大嫌いだけど、食べるのは大好き。
ア~ コリャ、コリャ、コリャ。

平成21年5月26日

「うぐいすの鳴く声きけば父かぞと思う、母かとぞ思う。」
今日、庭で朝食を頂きました。
山の方で、うぐいすが鳴いていました。
ふと前のうた詩を思い出して「父かぞと思う、母かぞと思う。」と。

私は多くの命に守られて唯今、この世において頂いて居るのだな
と思いました。

「たくさんの生き物の命を頂いて暮らすのに、お念仏せなもったいない、
おおきによ。」
「命頂いていつかのしょう生にお念仏に逢うてよ。」と言って戴いているのや。

これ程までに充分に、幸せに置いて頂いてもったいない。
「ほろ、ほろと鳴く山鳥の鳴く声聞けば父かぞと思う、母かぞと思う。」
いずれも、いずれもせぜ世々しょうじょう生々の父母兄弟と思う、皆々様ありがとう。

今度生まれ変わる時、心をこめて恩返しをさせて戴きたい。
「私は得て勝手な人間であったなぁ~。」と思いますが、
今のこの気持ちを忘れずに生まれ変わりたいものです。
お父さん、お母さん、私を生み育ててくれてありがとう。

私もだんだん頭がボーとして、何を書いているのか判らなく
なってきました。

お父さん、お母さん、裕子は幸せに暮らしています。
家族もご近所の人たちも皆、優しいです。

平成21年5月25日

今日は恥ずかしい事の大発見をした。
他に書く事が無いので、いやだけど書きます。

終戦で満州から帰ったとき、主人をソ連に連れて行かれて留守、
2人の子供を抱えて日本の実家も戦争でだめ、私は行商をしました。
母は可哀想と泣いてくれました。

身辺事情の変わりようがあまりに激しく、私はその後一生
「二人の子供を抱えて行商をした。」とおじいさんにも
世間にも言いふらしておったが、実のところ行商をしたのは
三ヶ月でした。

その後病気に倒れました。
終戦後の疲れたのでせう。
主人がソ連に抑留されて、私たちが日本に帰るまでの一年間
苦労しました。

それが体に負担だったのでせう。
病気になりました。

おじいさんは一生私たちの為に働いてくれました。
ありがとう。

私の心の中では自分が働いた事の三ヶ月程の事が非常に大きく
評価して心の中では「一大事業」を成し遂げた人間のように
思っていましたが、おじいさんは一度も私の不出来なことを
指摘しなかったですね。
ありがとう。
おじいさんは自分の手柄を言ったことはない。

書くのがしんどくなってきたので、これでお終い。

平成21年5月24日

今日は孫たちが次々に来て、にぎやかな一日でした。
樹人(いっと:ひ孫)は「おばあさん、僕が20歳になるまで生きててよ。」と
何度も言います。
20歳なれば何でもしてあげられると思うのでせうか。
その心根がうれしいです。

私が樹人のことばかり言うと、
和ちゃんは「おばあさんのひ孫は全部で8人いるのよ。」と言います。
「8人全部がおじいさん、おばあさんのお心を頂いて健やかに
大きくなっているのよ。」と言います。

そんなに大勢いるのなら、全員がそろったところを一度
見てみたいです。(昨年皆で集まりましたが忘れているようです。)
全員がそろった大きな写真を私の部屋に飾っておきたいです。
さぞや見事でせうね。
おじいさんにも見せてあげたいです。

おじいさん、私は幸せに暮らしています。
老いの衰えは日毎に感じていますが、喜びは益々盛んです。
こんないい日のことを、あなたと話し合いたいです。

おじいさん、私のうれしい姿が見えますか。
あなたの国から私の姿がよく見えるでせうね。

本当の事を言うと、私はおじいさんの姿や形を忘れて
しまいそうです。

人間界でお借りしたものは、やがて体も心も返さんならようです。
かえしとうない、かえしとうない、かえしとうない。

平成21年5月23日

今日は何をして遊かなと考えている。
この尊い命いっとき一時たりとも無駄に過ごしてはもったいない。

結局念仏することが、私にとって一番大切に命を使うときだと
思います。
ようこそ念仏申すからだ身体にして頂けた事よ、ありがたい事。

遥菜ちゃん(ひ孫)が来て、和ちゃんに可愛がってもらっているのを見て、
私も次生で和ちゃんの子供に生まれて可愛がって貰うかな。
(遥菜ちゃんはいいな~~)

平成21年5月22日

今日は村田先生の講義があった。
私は途中気分が悪くなったので、全部出席できませんでした。

居ながらにして立派な先生がお寺までお越しくださるので、
私も月に一度の非常に大きな楽しみですのに、残念な事態に
なってきました。

学ぶとは名ばかりで、同席させて頂いているくらいですが、
それでも私にとっては大きな楽しみです。
93歳にもなって学べるのは嬉しいです。

平成21年5月21日

今日は何回にも分けて和子(娘)のお客が来ました。
和子はお友達が多くいて、どなたとも仲のいい友達です。

人をほめることも何も出来ない不器用な人間の様に思いますが
とにかく、いろんな人がお見えになって和子のもとでくつろぐ
ようです。
和子は佛様のお堂のおかげと言います。

今日は和子の仲良しの西本すみちゃんも遊びに来てくれました。
和子のお客のときは私も一緒に遊びます。

和子はすみちゃんを大尊敬していると言っています。
自然のままに真心を持って生きている人だそうです。

和子は第一番の尊敬する人は生きている人で、おばあさんと
紘さん(娘婿)だと言います。

私も和ちゃんは不細工だけど、まあ~、まあ~良い人だと
思います。
和ちゃん、和ちゃん、和ちゃん。
今日はあんたのこと書いてあげたで。

和ちゃんはくたびれたのか、早々に寝ています。
好子さん(孫)が布団を着せてあげてくれました。

好子さんは和ちゃんの事をだまってよく助けてあげてくれるので、
うれしいです。
好子さんは私にもやさしいです。

平成21年5月20日

今日家へ三人来客あり楽しく談らんした。
どの様な客か知りませんが、楽しかったのだけは
憶えています。

「白浜の旅館へ泊まりにおいで」と言われたので、
今度泊りに行かせてもらいます。

三段壁に面した海の見えるところだそうです。
嬉しいことになりました。
「何を土産に持っていこうかな」と考えています。

和ちゃんが散髪をしてくれたから、今からでも行けます。
「カツブシのお土産はどうでしょう」
今から思っただけで楽しいです。

私はよほど出歩き好きですね。
半袖の外出着を着て、長袖を一枚持っていくことにしましょう。
そこには常駐の看護婦さんが居るそうで安心です。

ほんとうにうれしい、うれしいことです。

平成21年5月18日

民主党の代表に鳩山さんが選出された。

私は一票だけしか力は無いのですが、
可愛い孫たちの事を思うと
やはりいい人が選ばれてほしいですね。

要は我執に満ち満ちた、
いやそれ以外には無いこの世の日ぐらしの中にあって、
公のためにつくしたいと願ってくれる人、
せめて百年、百五十年先のことを思ってくれている人が
選ばれたら良いのにと思います。

私は93歳、
もうすぐ終わりますが後々の人が幸せになります様に
祈ります。

一人一人が
自分の人生がすぐ終わることを思って、
永らく国家の続くことを祈って行動してほしい。

平成21年5月17日

冬野の人物往来の様子から見ると、
私もそろそろ
おいとま(この世を)をせねばならぬ年になりました。

私は後生の一大事を今生において
如来大悲のおかげで解決せねばならぬ時、
私に与えていただいた偉大な環境のおかげで
ぼつぼつとお育てを頂き、
すべてを引き受けてくださっている
お阿弥陀様に気付きました。

前世の事等とても判りませんが、
今生だけを考えても地獄必定の私であったことだけは、
おぼろげではありますが確実に知れてきました。

私の行き先(死後の)はとやかく注文言えませんが、
ただ今日こんな、私のつみ重ねですのに
かくも安穏に平和な気持ちでおいて頂ける事だけは
論外のお不思議です。

昔からなすびの種を蒔き、なすびの実がなると因果の理法と
聞かせて頂いて来ました。

今まさに、この理法が完全に破られているのを感じます。

「うつむいてわがかげ暗くなげくらん、
仰いで見よや願力の月」(親鸞聖人)

合掌

平成21年5月16日

今日は眼がボーとしているので、一日ぼんやりして
遊びます。

身体もだらっとしています。

子供文庫の花祭りですが、出席しないかもしれません。

平成21年5月15日

今日は紘さん(娘婿)が高田さん(妹)へのお参りに行くので、
一緒につれて行ってもらうのでうれしいです。

メリー(妹)という名前は、父が名前を考えていた時
私がメリーという名は可愛らしいと言ったので、
アメリカ帰りの父がメリーと名付けたのです。

後、戦争になったのですが、メリーさんは級長を
していたので、何かの折は代表と赤坂メリーさんと
先生から呼ばれるので、そのたびに私は心ひそかに
「メリーとは私が名付け親だが」と何ともすまぬ思いでした。

この事はいつも心の中にあっても、いまだにメリーさんに
話したことはありません。
すみません、すみません。
でもメリーさんに似合った可愛らしい名だと思います。

米利(メリー)さんは「ヨネトシ」と読んで男と間違えられた事も
あるさうです。

米利さんは私より十三歳も年下ですが、体が弱いので
長生きをしてほしいと思います。

今日は高田さんへ行きますが、和ちゃんは大きな花束を
用意してくれました。
何のお祝いか知りませんが、何かめでたいことがあるのでせう。

私も毎年お誕生の時は、四、五回実に盛大な誕生会を開いて
くれます。
そのつど大勢のご馳走は和ちゃんが作ってくれます。
花束やケーキは皆さんが下さいます。
私も答礼にピアノを弾く事もあります。
親が子供の頃から習わせてくれたおかげです。

女学校の月謝が五円位の時、ピアノ一年の借り賃が百円、
月謝五円、英語も五円、英語の先生はイギリス人でした。
長唄も、舞も習いました。
お花、お茶それに私は弱かったので医療費も随分掛かった
と思います。
私が寝込むと看護婦さんをやとってくれました。

臼井霊気(現代のレイキ)も高いお金を出して習わせてもらいました。
「親は随分お金を使ってくれたなあ~」と今更ながら
思います。
ありがとうございました。

姉妹の中には父に反抗的な人もいましたが、私は可愛がって
もらいました。
一緒に歩いていてデパートのショーウインドの着物を眺めただけで、
ほしいとも言ってないのに買ってくれました。
私も昔はおとなしかったのだと思います。

私の思い出すかぎりでは、おはずかしくて筆に出来ないほど
自我の強い、意志を通すやんちゃないっぱいの私ですが、
いつからこんなになったのかなあと思います。

内観にめぐり合ったおかげで自分の姿を振り返って見る事も
出来ます。
その時、如来様、四方の神々の皆々様のあたたかいご恩のほどが
少し知らされます。

合掌

平成21年5月14日その2

和ちゃんは私に似てベッピンだけど、毎日同じ顔を
見ているとアイテくる。

下の方へおりて行って別のキュウリかなすびの顔を
さがして来よう。

何でも目新しいのは上等に見える。
野菜でも旬の物より、はしりのものが喜ばれます。

私の母弥生さんは私のことを「兄妹中で一番いやらしい顔」
と言っていましたが、明治さんは「一番可愛らしい」
と思っていたと思います。

和ちゃんも「そりゃそう~や、おばあさんは特別可愛らしい」
と言っていました。

アカンベーをしながら、
「和さんの目はふしあなだあ~、あ~ こりゃ、こりゃ」
合掌

平成21年5月14日

和ちゃんがおすしを作ってくれました。
今日はたいのすしです。

そばで少し頂いたのですが、おいしかったのだと思います。
そばで見ていてよばれたのですが、味はもう忘れました。
口をとほって胃袋の中に入ったら、味は忘れました。

「もう一つ」と言うと、お昼にねと言われました。
今食べたいと思っているのに残念です。

「口しめんといて」と言ったら、「五合全部でもあげる」と言いました。

私の母上もよくおすしを作ってくれました。
二人も女中さんがおったが、「忙しい中作ってくれたのだなあ~」
と思いました。

母は料理が上手だったと思います。
当時としてはハイカラな料理を作ってくれました。

これから西原房ちゃん(檀家さん)とこへ遊びに行ってきます。
毎日うれしいことばっかりでうれしいです。
合掌

平成21年5月13日

和ちゃん(娘)はフキのつくだにを朝から炊いています。
九時間もゆっくり炊くのだそうです。

今日はお掃除の人(ヘルパーさん)が来てくれる日だったので、
和ちゃんは朝早く起きて洗面所と便所と
フロ場を掃除していました。

おぢいさんはやさしい人柄でした。
十三回忌もすんだら、あんなにやさしかった
おぢいさんの事を何一つ思い出せません。

あの世でよい彼女が出来たので、私の記憶の中に
出てこないのかなあ~。
それもよし、ほんとうはあんなによう言うことを聞いて、
怒らない人見つけるの骨折れるから、まっててほしいのだけど、
なるようにしかならぬので仕方が無い。

今度おぢいさんとめぐり会えたら、お澤さん(姑)と大の仲良しに
なりたいと思います。
お澤さんは道を歩くときでも。正信偈をあげていました。
まったく愚痴も不足も言わぬ人でした。
合掌

平成21年5月12日

アタマポン、93歳、ボケポンポン。

もうあきまへんわ。

これでも女学校のときは走りが特に早くて
「番丁の赤オニ」(番丁小学校の赤坂さん)と
対校仕合では他校から恐れられた日もありました。

今では手をひいてもらって歩いています。
杖なしでもとぼとぼと1人で歩けますが、
家人と一所の折は手をひいてくれるので安心です。

好子さんは耳医者へつれて行ってくれたので、
よく聞こえるようになりました。

九鬼先生は女医でした。

朝ごはんおいしかった。

いろいろいっぱいありました。
全部たべました。

今日は何して遊ぼかな。

平成21年5月11日その2

93歳にもなって思うことは、

子供たちよ、孫たちよ、早く後生の一大事に気をかけて、
この一大事を解決してのち、ゆうゆうと人生を送ってほしいと思います。

まだ書きたいのですが、ちょっと昼寝をしてから書きます。

平成21年5月11日

裏の庭には先に大きな広い、大きな白いテッセンの花が咲いていたので
和ちゃんが見せてくれました。

今日はちょっとがっかりしています。
いろいろ失敗ごとが重なりました。

一つは洗濯中の機械の中に私のオシメの汚いのを入れたので、
和ちゃんは洗い直して一面についた紙をはたいていました。

今日はまだまだ失敗ごとがありました。

本当の私の心は、年寄りの世話をするのが当たり前と心で
思うことがあります。

口先ではごめん、ごめんと言っていますがね。

和ちゃんは書け、書けというので書いていますが、
もういや、いや、くさった事はごひろうしたくないです。
アカンベー

和ちゃんが「おばあさん、そのままがありがたいのや」と言ってくれます。

平成21年5月10日

今、朝ご飯を済ませたところです。

無為徒食の身が大変なご馳走を頂き、いよいよもって無為徒食を恥じます。

その中で時折申す「念仏」のみが誠だと思う。

私のような恩も知らず、勤勉に働く事も嫌ったような不出来な者に、
お念仏ほどの大きな宝をよくぞご用意下さったものと思います。

「(煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は)よろずのこと、みなもてそらごとたわごと、
まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」
歎異抄

こんな有難い念仏をお与え下さって有難いです。

平成21年5月8日その2

今日は別に何とも書く事が無いので、思い出話を書きます。
私は六人兄弟で、男三人女三人の中で育ちました。
兄は卓龍(たくりょう)と言う名前で、長兄で六人兄弟の大将として随分威張っていました。
母も兄弟を統率していく上で大将にしたのだと思います。

二番目は私。

三番目は勇哲、この子は雄弁家で演説等も。
東大の法科を卒業して将来を楽しみにしていましたが、大東亜戦争でミンダナオ島で左足に大砲の弾の一部を受けて戦死したので、本当にもったいない事でした。
信仰も厚く、本当に惜しいことでした。
兄も満鉄に勤めていましたが戦死しました。
兄も法科卒業でしたので、学生の頃兄弟と父とで法律の話をして、楽しく夜食を食べてほんとに楽しかったです。

私は聞き役でいつも一緒に話し合いをしました。
皆戦死をして父はさぞ悲しかったことと思います。

母は勇哲が特に可愛いかったらしく、高等学校と大学校へ行っている間に、お父さんから貰った小遣いを貯めていたのを全部、五千円も使わされてしまったさうです。
当時五千円は大変なお金だったと思います。

友達と遊ぶときでも1斗樽の酒を皆で山へ持ち上がったそうです。
母はうれしそうに「勇哲めに使われた」と言っていました。・・・・
この子も戦争でミンダナオ島で死んでしまいました。

私達、上三人は毎年二里浜(にりがはま)や其の他で家を借りて一ヶ月過ごしました。
女中さんの1人がついて行ったので生活に不自由は無かった。

浜辺の朝日、夕日を見て昼は昼寝して暮らして楽しかった。
或る時は瀞河へも行きました。

高野山のつづきの山で、山でも夜は涼しく冬の布団を着て寝ました。
一ヶ月泊まるのだから三人もの分、泊まり賃をねぎっているので「あれまあ。」と思いましたが、私もその当時は世間知らずのお嬢さんだったのですね。

平成21年5月8日

今日は6時に起きて7時過ぎに朝食をとりました。

紘さんは早朝に逮夜参りに出かけました。
私も以前は、あのようにしてお参りしたのでした。
当時の頃を思い出します。

檀家の人々とお話しするのが楽しかったです。
今も2軒お参りして、楽しい時を過ごしています。

足元もおぼつかないので、誰に目にもややこしいことと思います。
杖も持たずともよいので有難いです。

93歳も過ぎました。

昨日は奈良へ紘さんと好子さんの運転で、おそばを食べに行きました。
そうですが、これは忘れていて和ちゃんに教わって書きます。

近頃は何事もよう忘れる様になりたよりないです。

朝食は好子さんがお手製のお弁当で、高速道路中程のサービスエリアで頂いたそうです。

「音もなく香もなくつねに天地(あめつち)は、書かざる経をくりかえしつつ」
これは二宮尊徳先生の詩だそうです。
主人の好きな詩だったと思います。

それについて思うことがあります。

私の一生で気付かなかった事を、近頃気付きました。

主人の母上の澤様も、主人も沢山のことをしてくれましたが、仕事をしたとは
言ったことはありませんでした。
ましてや自分が世間からほめられるとか、みとめられると言った事はありませんでした。
私は子の様な立派な人々に囲まれて「安穏な日々を過ごしたのだなあ」と思はれます。
今にして、主人やおばあさんは立派な人々であったとつくづく思います。

それにつけても、「私のお粗末な事よ。」と和ちゃんに言うと、おばあさんには「別の役割があったの。」と言ってくれましたが、
「ああはずかしい。」和ちゃんは「三人でこの世に大きなお経を残してくれる。」と言ってくれました。
そして和ちゃんにもその血が流れているのを感じます。

「明治さん、お澤さんありがとう。」

この二人の在世中はそれ程有難くも、尊くも思わなかった。
特にお澤様にはきらいな姑だと思って、いつも意志が強い私はおばあさんをきらうばかりで、心をこめて付き合ってくれたのに受け入れたことは無かったと思います。
主人はつらかったと思います。
和ちゃんに言うと「それも皆、仏様のお心の内。」だと言うます。
有難う。  合掌

平成21年5月6日

今日も宏典さん(孫)が早朝に来て、草取りをしてくれました。
和子さん(娘)は、「敬ちゃん(宏典の嫁)と心を合わせてくれるから、こんなに
毎日朝早くから来てくれるのだ」と言っていました。

私は何とも考えていなかったけれど、何とありがたいことです。

和ちゃんも子供の頃、草取りについて不足を言わなかったけれど、
宏典の家庭でも同様、不足が無いようですね。
ありがたいことです。

好子さん(孫)がお昼にパンの上に色々なものをのせて焼いてくれました。
「ピザ」と言っていました。
子供の頃食べた憶えがあります。

私の両親はアメリカから帰ってきて、当時めずらしく食べさせて
もらった憶えがあります。
料理を食べさせてもらった憶えがあります。
なつかしく心がおどります。

アメリカでは日常普通の料理だったのでせうが、当時としては相当
珍しい料理でした。

母は色んな料理を作って育ててくれたのに、私はそれを習いませんでした。
私は料理も掃除も大きらいでした。

平成21年5月5日

今日は男の子の節句の日です。

弥生さん(近所のおばあさん)のところで遊びました。
男の子が2人もあるので、「いろいろ考える。」と言ってました。
弥生さんと話をすると念仏者であり、心の通う話が出来てうれしいです。

昼ごろから夕方まで遊んだので、和ちゃん(娘)が迎えに来てくれました。

半月ぶりくらいで遊んだので特別な話は無いのですが楽しかったです。

家へ帰って来たら好子さん(孫)、ご馳走を作ってくれたの 皆でよばれました。
テーブルでは好子さんの隣に座るのですが、いつもよく面倒みてくれます。

平成21年5月4日その2

今日、宏典(孫)一家が来て、庭の草取りや木の剪定をしてくれました。
我が家の好子(孫)も一緒に参加して働いてくれました。

伸びた木を切ったり、草を刈ったりしていました。
池のぐるりも見違える程きれいになりました。

和ちゃん(娘)のたすけを皆でしてくれたので嬉しいです。

昨日も今日も孫の家族と多勢で毎食ご飯を食べて嬉しかった。
皆が「オバアサン、オバアサン」と言ってくれるので、ひ孫まで大切にしてくれました。

毎日、無為徒食のもったいない日ぐらしをしています。
和ちゃんが「無為徒食と言ったらいかん。」と言ってくれます。

「大きな仕事を毎日してくれている」と言ってくれますが、
生きているだけで自分の事も出来ないのに何という有難いことでせう。

今、正にお浄土の生活をさせて頂いています。
合掌
いまだ生まれざる安養(あんにょう)の浄土はこひしからずさふらうこと、
まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)にこそあれ。(歎異抄第9章)
合掌

平成21年5月4日

今日は曇り空です。
私の頭も曇ったようにボンヤリしています。

朝から沢山のご馳走をいただきました。

和ちゃん(娘)は料理をするのが好きなので、私は幸せをしています。
つとめて35品目となるように努めている様です。

子供たちがずうっと小さかった時から続けていたようです。

おかげで大きかったおじいさんも、私も一度も骨折はしていません。

おじいさんはやさしい人でした。
今思い出してもなつかしい人です。
私1人に優しかったのではなく、ご近所の人々にも優しかったと
言っています。
西原の房ちゃん(檀家さん)も度々そう言ってくれます。

和ちゃんは朝ご飯を炊く前に、庭の草取りをしているようです。
宏典さん(孫)が草取りに来てくれたので、もうやめておきます。

平成21年5月3日

今日は心に浮かんだことをそのまま書いてみます。

死ぬのは怖くないですか。

93歳にもなるとたいていの人はまだ見ぬ、行く先の事を思って悩みます。
もしくは、くさい物に蓋をするようにそこを避けて日ぐらしをするようです。

人間生まれた限りは死ぬのが当たり前の事です。

死んでから行く先の判らないのが、怖いのが当たりまえです。

平生から終わりに望むことを尋ねて求道生活こそ大切で、それが解決すれば心配は無用です。

それが私達の生涯の課題です。

行く先の問題が解決すれば悠々々、その時を迎えられる様です。

私のために五劫、兆載永劫(ちょうさいようごう)のご苦労、
阿弥陀如来様のご苦労を偲ぶ時、
「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」

大宇宙にへんまんする宏大無辺の光に浴して、私は幸せ者です。

合掌

平成21年4月25日

昨日は本堂いっぱいの人出でした。

ご馳走を仕出し屋から取って食したと思います。

何のお集まりか覚えていませんが、大変なご馳走だったと思います。
何を食べたのか、どんな集まりだったのか全然おぼえていないので残念です。

「何の集まりだったの。」と和ちゃんに聞くと、
和ちゃんは笑っているだけです。

「私の長寿を祝ってくださったの。」と聞くと、
「そうだと云います。」がそれはウソだと思います。

私の誕生日は10月21日だからその日では無かったと思います。

大勢いたのはわかりますが、だれが居たかはわかりません。
近頃はおつむがどうかしていると残念ながら思えてきます。

日々のこんな大事な事でもすっかり忘れて静かに暮らせるのは有難いことです。

みほとけ様、四方の神々、皆々様に感謝して暮らしています。

頭がちょっと足らんようになって来ました。

和ちゃんは今日から岡山(和子の夫の里)に行くといって、
荷物をつくっています。

私が「難儀や」と云ったら、
「紘さん(娘婿)も好子さん(孫)や皆がいてくれるから大丈夫」だと云ってくれます。

平成21年4月24日その2

今日は村田先生(元大阪商業大学教授)の勉強会(如月会)で
源氏物語と相続の法律問題を習った。

源氏物語はおもしろかったが、
相続は私にはもう関係の無いことで面白くなかった。

十名余りの学生の為にあの立派な先生が
無報酬でよく来てくれたものです。

もう17年続くが一度も休まずに来て下さる。
その割合に私の頭の中にあまり残っていません。

すみません。

93才にもなって親のおかげで教育もつけてもらっているので、
よく理解が出来てうれしく思います。

今日、毛呂さん(勉強会のレジメを清書して下さる方)が見えなかったので
お加減がわるいのかなと心配しました。

和ちゃん(娘)はローカで聞いています。
来客があったり人々の出入りが多いので気をつかっている様です。

平成21年4月24日その1

風邪気味で寝込んでいます。
近頃は忘れっぽくなって昨日の事でも忘れてしまいます。
日記を書けるのも今しばらくと思われます。

忘れても、忘れぬ親の
ある故に忘れる者も
その身そのまま

ああ有難や念仏だけはつい口に称えています。

和ちゃん(娘)はまだうす暗がりに起きて草取りをしていました。
草取りはいつもしているけれど私の煩悩のようにいつまでも取り切れません。

今気がついたのですが
私がこの寺へ来てから未だかつて草取りをしたことが無いと思います。
ほんの少し気まぐれで取ったかも知れませんが
全くはお寺を荘厳する気は無かったと思います。

93才になって気がつきました。
その時はもう草取りも出来ぬ様な体になっていました。

すまん、すまん、すまん

おじいさん(夫:故人)和ちゃん その他のおばあちゃん(姑)にも叱られた事は一度もありませんでした。

すまん、すまん、すまん、すまん

書いとくだけよ。へへへ

平成21年4月23日

今日は目の調子が悪く字を書くのもはっきり見えません。
日記を書くのもあとわずかの時だとおもわれます。

昨日、延ちゃん(檀家さん)とこでおばあさんの正月命日で
立派なお寿司をやご馳走を頂きました。
延ちゃんや清さん(延ちゃんのご主人)のご先祖を思う気持ちが
あふれる様に見えました。
和子(娘)も延ちゃんの姿は清々しいと云っていました。

私は無為徒食にして90年の年をすごして来ました。
以前は心に障りが多かったのでしょう。
体はよく反応してほとんど寝ていましたし、薬も驚く程のんでいました。
主人にも薬を買いに行ってもらったと思います。

けれど、そのころは少しも元気になりませんでした。

近年は寝込んだこともないし、薬は脳こーそくの薬だけです。
近頃はしあわせに暮らしています。

自分の体だけが93才で、日々衰えていきますが心は益々元気になってゆきます。

私が無為徒食だと云うと
和ちゃんが「生きていてくれるだけで大きな喜びを与えてくれる」と云ってくれます。

平成21年4月9日

今日は根来へ桜見物に行きました。
西原房子さんと中井彩さん(近所のお友達)をお誘いして
紘さんの運転で五人で根来方面へ行った。

昼食は緑化センターでした。
和ちゃんのつくったお弁当はおいしかった。
大ご馳走でいっぱいならんだと覚えているが
その内容はもうすっかり忘れてしまって覚えていません。

いよいよ私も文字書きながら手許もハッキリしないので
この様に書けるのも今しばらくの事だと思います。

私の若い時には体がとても弱かったのに、
この年まで置いて頂いてほんとうにうれしく思います。
これも皆さんにいたわって頂いたお陰だと思います。

平成21年4月8日

今日は花まつりの日です。
おしゃか様に水(甘茶)をかけてお祝いする日です。

おしゃか様が印度にお出ましになられたこそ私達は尊い仏法をきかせて頂きます。
有り難いことです。

昔の中国、日本の人々が命がけで伝えて下さればこそ
今日私がやすやすと聞かせていただけるのです。
有り難いことです。

私達も後世の人々に身をもってお伝えしなくてはなりません。
世間の人々は今生の事が大事で後生の一大事には心をふりむけてくれません。
私もそうでしたから一生懸命に布教に心を配らねばなりません。
私の五十年の住職在職中、何人後生の一大事に気付いてくれたかと思います。
もっともっと励まなくてはなりません。

うれしい事に今の住職は御法に熱心で
後生の一大事に熱心にとり組んで居られるので
たのもしく思います。

これが解決すれば壇中一同も幸せすると思います。

平成21年4月6日

西光先生
(西光義敞氏 元龍谷大学社会学教授 万行寺住職 「真宗カウンセリング提唱者」)
の二回忌の法事があると云って紘さんが奈良へ出かけて行きました。
桜の頃だから道中はきれいだと思って私もつれて行ってほしかったが駄目でした。

今日は人の出入りが多く一日中忙しい日でした。

和子のところへお客がくるので私はたいくつすることがあります。
夕食は孫やひ孫がよったので大勢でした。
和子は食事の用意をするのが好きな人ですが
忙しいらしかったのか色とりどりスーパーのお弁当が
食卓に山の様につんでました。

和ちゃんも年をとったのだなあと思いました。

観音寺様(同地区内のお寺)の桜がライトアップされたそうです。
『散る桜 のこる桜も散る桜』

特攻隊の若き人たちのうただと聞いていますが
人生無常

平成21年4月3日

弥生さん(近所のお友達)の家で遊んで帰ったら和ちゃんが布団を干してました。

「和ちゃんは可愛らしいです」と書けといわれて書きました。
ほんとうは丸ぼちゃのジャガイモの様な方です。

うそうそうそ

「裕子さんはほんとうに可愛らしいです。」
おじいさんは一度もそう云ってくれませんでした。

えへへ

弥生さんとこで話したこと。
ハッキリ覚えていないのでウソもまじるかもしれません。

お念仏申す身にして頂いた現当二世 幸せ者やなと二人で話した事でした。

菓子を頂いたので半分和ちゃんに持って帰りました。
おみやげを頂いたらうれしいです。

平成21年4月1日

『うれしさを昔は袖につつみけり 今宵は身にもあまりぬるかな』

これは昔の人の歌であるが
信仰に目覚めた時の歌であろうかと思われます。

私の身にひきよせて味わったら
信心に目覚めた時の心境かと思わはれます。

私も身に覚えがあります。
信仰に目覚めた時に喜びのあまり何日も踊っていました。

信心の溝さらえとは、耳がたこになる程きいていましたが、
信仰面での仏様に対する自分は考えて居った様にも思えますが
現実の日常生活では
我程偉いものはないと自我に振り廻されて己を振り返る事もなく
従って地獄一定の私の為のお慈悲であった事も身に付かず我執一杯の生涯。
長の一生 相すまぬ事であったと思います。

近頃は現当二世のおすくいにあづかりこんな幸せ者は無いと思はれます。
昔も今もかわり無い生活だと思いますが、
昔は山ほどのんだ薬も今はほとんど飲んでいません。

有り難いことです。

長い間私の心得違いで体に迷惑をかけてきました。
ごめんなさい。

平成21年3月31日

裕子と云う字は裕は「心のゆたかな」と云う意味でつけてくれたのだと思います。
父が心をこめてつけてれた名前だと思います。

お父さん有り難う。

私はこの名前が好きです。

93年この名に恥じない生き方をすれば良かったのにそれは出来ませんでた。
我身をふり返るのはいやな程おそまつな生活でした。

多くのいたらぬ事はあったと思いますが今思い出すのは
しゅうとめ(故人)さんはいたって心配りの良い人でしたので、
私のすることに不満であったでせうが何も云わずにすごしてくれた事です。

明治さん(夫:故人)の大切なお母さんを、私がキライでしたが、
其の事で明治さんは私を叱ったことはありませんでした。

明治さんの様な立派な人を育てたおばあちゃんに心より感謝します。

平成21年3月30日

今日和ちゃん(娘)がおそう式で忙しかったので私は淋しかった。
夕食は色々御ちそうがあったがやはり淋しかった。
好子(孫)さんが御ちそうをつくてくれたし、紘さん(娘婿)も居ったのにやはり和ちゃんが居ないと淋しかった。

いつの間にか、親子いれかわって私は和ちゃんの子どもの様になってしまいました。

和ちゃんはいつも私に「かわいらしいかわいらしい」と云ってくれます。

「アホーアホー」
私は自分の親にいつも「顔がいやらしい いやらしい」と云われ通したので
信用出来ません。
それでもかわいらしいと云ってくれるのは、今の生活が楽しいので、いつも心が笑っているのかも知れません。

家族に合掌します。

平成21年3月29日

未だ生まれざる安養の浄土はこいしからず候
よくよく煩悩のこう盛にこそあれ

古人の云われた様に私も九十三才を半ば過ぎましたけれど、
いよいよ今生に執着して日々の楽しみを追い廻している私です。

身体が日々おとろえてゆくのに日々楽しんで居れるのは幸せです。
おそだて頂いてお念仏も申させて頂く身になったことほんとに幸せです。
み仏様や皆さんの身にあまるいつこしみを受けながら日々をすごしています。

うつむきて 我が影くらくなげくらむ
仰いで見ずやみ仏の声

Return to Top ▲Return to Top ▲